周囲には何もない、何処とも知れぬ場所で、それは悠然と佇んでいた。
その目には何も入っておらず、そもそも何も見ていない。
それが見るべきものは、とうの昔に失われたからだ。
或いは自分もその時に消えるべきだったと、後悔を滲ませ……ふと、それはそのことに気付いた。
『む……? これは……我が力の一部が消失した、だと……?』
十二の塊に分かたれたとはいえ、元は一つの存在である。
残滓を感じる程度、造作もなかった。
だがそのうちの一つが、唐突に消えたのだ。
有り得るわけがないことに、それは僅かに唸り――
『奇怪な……一部とはいえ、邪龍とまで呼ばれた我が身を滅ぼすことが出来るものがいるとも思えんが……まあ、構わぬか。何か想定外のことでも起こったのだろう』
しかし喉を唸らせると、それだけで済ませた。
そもそも、十一が集まっただけで十分に過ぎるのだ。
一つ足りない程度、どうということはない。
『さて、アレも未だ戻らぬが……約束の刻限だ。これ以上待つ理由はない』
そうしてそれは――邪龍と呼ばれたものは、彼方へと視線を向けると、その翼を広げた。
漆黒の身体を浮かび上がらせ――
『では、始めようか……あの時の続きを。彼のお方の弔い合戦を、な……!』
最後に一つ、咆哮を上げると、目的の場所へと向かい、飛び立っていった。
唐突であるが、ラディウス王国の中で複数の領地を所有している貴族というのは、非常に少ない。
それは単純に、人手不足が故だ。
複数の領地を所有したところで、その運営が出来ないのである。
それを理解しているからこそ、王国側も基本的に複数の領地を与えることはないのだが……そこは、その数少ない例外であった。
――ラディウス王国ノイモント公爵領ゼンフルト。
ノイモント公爵が所有する二つ目の領地であり、またベリタス王国との国境に面している場所でもある。
つまりは、ノイモント公爵が所有する領地は二つとも国境に面していることになるが……これも、人手不足が理由であった。
端的に言ってしまえば、国境を任せることが出来る者が他にいないのだ。
国内最高戦力であり、世界最強でもある二人に国境を任せる。
それが、ラディウス王国が取れる最善の策であった。
もっとも、これは常識から考えれば有り得ないことだ。
特に、半ば休戦状態にある魔族側はともかくとして、現在進行形で戦争を行っているベリタス王国側については。
そもそもの話、特級持ちは戦場に出てくる事がないからである。
確かに特級持ちが戦場に出てくれば、ただの一人で戦場の流れすらも変えることは可能だろう。
だがだからこそ、その場合は相手も特級持ちを出してくることになる。
そしてそうなってしまえば、後に待っているのはただの泥沼だ。
一般的な兵士どころか、上級持ちでさえ、特級同士の争いの余波で吹き飛ばされかねない。
それはもう、戦争ではない、別の何かだろう。
しかしこの国は、それを逆手に取った。
敢えて特級持ちを戦場に、しかも最前線に出してきたのだ。
こうなるとベリタス王国側も特級持ちを出すしかないが、それは出来ないことでもあった。
そんなことをしてしまえば、みすみす他国に付け入る隙を与えてしまうからだ。
周辺国全てと敵対関係にあるベリタス王国の、弱点を突いた形である。
或いは、相手次第では即座に倒すことで何とか出来たかもしれないが、生憎とこちら側の特級持ちは、七天の一人、第一の王にして剣の王だ。
下手をすれば負ける可能性の方が高い上、放っておいても攻めてくるわけではないのである。
放っておくことは大国として看過出来ないが、手を出せば火傷では済まない。
結果的に互いに大した被害の出ない小競り合いを繰り返すのが、この国境線での日常となっていた。
ただ、改めて言うまでもないだろうが、それは一人の献身に近い犠牲あってのことだ。
第一の王にして剣の王――クラウス・ノイモントである。
そのせいで、クラウスはほぼ毎日のように前線にいなければならなかった。
とはいえ、実際に本気で戦ってしまえば、向こうも本気で抵抗をしなければならないため、やっていることと言えば睨みを利かせることぐらいだ。
たまに一撃を加える程度のことはするも、それだけ。
そのため疲労などはなく、むしろ楽なものではあったが……色々と支障も多かった。
特に問題だったのは、やはり公務だろうか。
書類等ならばともかく、パーティーへの参加や、顔出しが必要な場面に行くのはほぼ不可能であった。
それらは全て、妻のソフィアに任せなければならなかったが、向こうも相当無理をしていることだろう。
そのうち労わなければと思ってはいるものの、今のところその機会は訪れていない。
何せそもそも、ここ三年ほどは向こうの家に一日すらも帰れていないのだ。
私人としてならば、それが最大の問題であった。
息子に――ソーマに何があったのかは、勿論聞いている。
そのことで本人は当然のこと、妻や娘にも負担を強いているということは自覚しているし、そのことで心を痛めてもいた。
だがそれでも、帰るわけにはいかなかったのだ。
部下達からは何度も、せめて妻や子供の誕生日にぐらいは戻れといわれていたのだが……クラウスは、ベリタス王国が何かを企んでいるような気配を察していたからである。
それが何なのかを見極め、対処すること。
それが自身の役目だと理解しているが故に、ここを離れるわけにはいかなかった。
そしてだからこそ、それが起こった時には、ついにかと思い、驚くことはなかったのだが……それでもあまりの予想外のことに、さすがに眉を潜めざるを得なかった。
「……それは本当の事なんだな?」
「はっ、間違いありません! 物見からの報告だけではなく、魔導士も動員しての調査結果です。誤認であったり、幻術を使われたなどということはないかと」
「……ふむ。だがここに来て、全軍攻勢だと……?」
そうそれは、国境付近で観測されていたベリタス王国の全軍が、こちらに攻勢を仕掛けてきた、というものであった。
それは今までなかったことだ。
まあ、当たり前だろう。
こちらにクラウスがいる以上、幾ら数を増やしたところで、有象無象では意味がない。
それに睨みを利かせたのも、つい一時間ほど前である。
まさかそれで退いたと思うほど、間抜けではあるまい。
「……増援や、伏兵等の姿も見えないんだな?」
「はっ! 増援が加わった様子はなく、伏兵に関しては配置する場所がありません!」
「まあそれに関しては、愚問だったか……」
そもそも今まで小競り合いで済んでいたのは、クラウスの存在もあるが、立地の関係も大きい。
余計な小細工等が出来ないような、だだっ広い平原だけが、そこには広がっているのだ。
或いは有り得るとしたら、空ぐらいだろうが――
「それもいい的でしかない、か……」
たとえ上級の魔導士が出てきたところで、クラウスならば撃ち落すのは容易であるし、事実かつてやったことがある。
ここでそんな真似を繰り返すほど愚かなら、クラウスもさっさと家族に会いに戻っているだろう。
玉砕も有り得ない。
意味がない。
必ずこれには意味があるはずであり……だがそこまで考えたところで、首を横に振った。
「これ以上は考えたところで意味がないな。そもそも、将校達にはとっくに話が通っているんだろう?」
「はっ! 敵の目的が読めないため、最終的な判断はお任せする、とのことでした!」
「だろうな。……分かった、俺が出る」
「……よろしいのですか?」
「これが最善だし、俺がここに居るのもそのためだ。それに、俺は部下を無駄死にさせるほど、薄情じゃない」
「はっ! 失礼しました! ではそのようにお伝えいたします!」
「任せた」
「はっ!」
敬礼し去っていく部下を眺めながら……クラウスはふと、窓の外へと視線を向ける。
雲一つない、青空であった。
おそらくは外に出れば、気持ちのいい陽気のはずであり……だが何故だかそれが、今は妙に不吉に見える。
「……いや、だとしても、結局は俺のやることは一つか」
家族ではなく、国を優先した人でなし。
ならばせめて、武人としてこの国を守れなければ、この身には何の価値もないだろう。
だからクラウスは、傍に立てかけてあった愛剣を掴むと、足早にその部屋を後にした。
クラウスが姿を見せると、その場の反応は二つに分かれた。
歓声を上げる側と、雄叫びを上げる側である。
まだ激突もしていないというのに、気が早いことであった。
「状況はどうなってる?」
最前線、指揮官を務める男の側に寄りながらの言葉だ。
だがその問いに返されたのは、双眼鏡であった。
自分で見た方が早い、ということなのだろう。
確かに接敵まで多少時間があるようだし、それが確実だ。
故にそれを受け取り、眺め……眉を潜めることとなった。
「……さっきの雄叫びの時点で分かってはいたが、妙に士気が高いな。援軍とかは現れてないんだろう?」
「少なくとも、クラウス様と渡り合えるような連中が来ていないのは確かですね」
「ふむ……」
特級持ちは、良くも悪くも目立つ。
それが抑止力となることもあり、国外に広く知らしめるため、基本的にはその顔を知られていないというのはほぼ有り得ないことだ。
物見達が見逃すということはないだろうし……まあ、ベリタス王国ほどであれば、一人や二人隠していてもおかしくはないが、それでもこの状況で出してくるというのはないだろう。
それをやるにしても、もっとこっちを油断させてからのはずだ。
こんな警戒してくださいといわんばかりの状況でやったところで、効果は薄い。
「見れば分かるかと思ったが……まあ、いい。ゴチャゴチャ考えるよりも、一当たりしてきた方が早いだろう」
「クラウス様以外ならば止めるところですが、色々な意味で無意味ですしね。俺達の出番も残しておいてくださいよ?」
「さあな……それは、敵さん次第だ」
言いながら、クラウスは僅かに身を沈めた。
足に力を込め――
「じゃあ、行ってくる」
「はいはい、お気をつけていってらっしゃいませ」
部下の言葉を受けながら地を蹴り、一足飛びに宙へと躍り出る。
上空約三十メートルほど。
敵軍までの距離を半分ほど詰めたところで頂点に達し、重力に従い落ち始めた。
「や、やつが来たぞー!」
「くっそ、相変わらず無茶苦茶なやろうだ……!」
「特級持ちが一番槍してくんじゃねえよ!」
こちらに気付いた敵が慌てて反転するも、こちらはそれも予測済みだ。
着地地点がちょうど敵の最前線のど真ん中になるだろうことを確認しながら、背負った剣を鞘から抜き放つ。
その刀身は、おおよそ自身の身長の八割ほど。
二メートルの八割であるから、相当に大きい方だが、それこそがクラウスには使いやすいのだ。
握りを確かめながら両手で持ち、頭上へと振り上げれば、地面と敵はすぐそこであった。
「とりあえず、当てないようにはするが、当たるやつは知らん。精々頑張って避けろ」
「む、無茶言うんじゃねえー!」
相手が何やら叫んではいたが、こちらの知ったことではない。
もう一度しっかりと握り締めた剣を、落下の勢いを合わせ、そのまま地面へと叩き込んだ。
――剣術特級・一の剣・護国の加護・武芸百般・怪力無双・比翼連理:メテオストライク。
瞬間地面が陥没し、爆ぜる。
周囲へと莫大な衝撃が散り、諸共吹き飛ばせば、そこに出来上がったのは巨大なクレーターだ。
直径十メートル、高さ三メートルはあろうかという場所に、一先ず敵の肉塊が転がっていないのを確認すると、跳躍し外へと出る。
出来上がったばかりの穴の後方へと着地し、周囲を見回してから、ふむと頷いた。
「ざっと眺めた範囲だが、死人はいなそうだな……相変わらず優秀だ」
「うるせえ! こっちだってこんなこと慣れたくなかったっつの!」
そうして叫んでくる敵方だが、その距離は五十メートルほど離れている。
逃げたというよりは、こちらの攻撃の余波で吹き飛んだのだ。
もっともそれでも、怪我人の姿はあっても、死んだ者はいないようなので、やはり優秀である。
まあ向こうが言っているように、単純に慣れたというのもあるのだろうが。
そう、ここまではいつも通りの、茶番だ。
三日に一度は繰り広げられている、日常の一部。
だが。
「さて、改めて言うまでもないだろうが、一応礼儀として告げておこう。逃げるのならば追いはしないし、捕虜となるならば受け入れる用意はある。特に今回そちらは何かを企んでいるようだから、それを話してくれるのであれば手厚くもてなすことも約束しよう」
「はっ、どうするかなんて、言うまでもないだろうが!」
そう言いながらも、いつもならばさっさと逃げ帰るのだが……やはり、今日はそうはならないらしい。
倒れていた者達も立ち上がると、こちらに確かな戦意を向けてくる。
気持ちのいい連中だと思う。
自分達が居た頃と、同じだ。
上が腐っていたとしても、全てがそうだというわけではない。
しかしそれが分かっていても……或いは分かっているからこそ、クラウスもまた剣を構えた。
「そうか……ならば最早何も言うまい。ある程度加減はするが、殺さないでいられる自信はない。頑張って生き延びることだ」
別に殺さないというのは、慈悲の心からではない。
確かに彼らに恨みはないが、これは戦争なのだ。
殺し殺され、恨み辛みは戦場の常である。
だが戦略的に言えば、死人を作るよりも怪我人を作る方が遥かに効果が高い。
ついでに言えば、捕虜として捕らえれば向こうの情報が得られることもあるだろう。
そういうことであった。
とはいえ、ただの兵士に今回の目的等を聞いたところで無駄だろう。
だからクラウスは、それを目の前の彼らに問うこともない。
問うべきは、指揮官等の上の人間だ。
そこまで一直線に向かい、捕まえる。
状況の把握と戦意を折ることを目的とした、一石二鳥の構えだ。
そこまでを考えると、クラウスは腰を落とした。
一度止まった敵軍の動きは、もう再開している。
まずは蹴散らしながら、目的の人物を探そうと、その足に力を込め――不意に影が差したのは、その時のことであった。
「……?」
そこでクラウスが咄嗟に空を見上げたのは、それを異変だと捉えたからだ。
先ほどまで雲一つなかったのは確認している。
ならばそれは、上空に何かが現れた、ということであり――
「――なっ!?」
瞬間視界に映し出された予想外のその姿に、一瞬呆然と、その場で立ち尽くした。
それは完全に隙だらけの格好であったが、敵がそこを突いてくることはなかった。
敵もまた、或いはクラウス以上にそれを見て驚愕をあらわにしていたからだ。
「お、おい……あれ……まさか……!?」
「馬鹿な……嘘、だろ……!?」
それを目にした者の中で、それが何なのかを理解出来ない者はいなかった。
実際に見たことがある者は少ないはずだ。
しかしそれでも、即座にそれだと確信できるほどの威容が、それにはあったのである。
全長は五十メートルほどだろうか。
その全身は漆黒に塗れ、まるで夜を顕現したかの如く、ただそこにある。
或いは、空に空いた巨大な穴だとでも言われれば、そのまま信じてしまいそうですらあった。
唯一、そこだけが赤い瞳が、眼下の全てを無価値とばかりに睥睨している。
それは最強の一。
人類などという狭い範囲での話ではなく、世界という枠組みの中での、頂点だ。
同時に、最悪をも意味する、それの名は――
「……龍」
誰かの呟きが、畏怖を伴いながら、その場に響いた。