そんなこんなで、俺は黄昏刻の密林を、アイ=ファとともに突き進む顛末と相成ったのである。
どうやら本格的に夜の訪れが近いらしく、あたりはずいぶん薄暗くなってしまっている。
「お前のせいで、無駄な時間を過ごしてしまった。こんな暗さでギバに襲われたら、死ぬな」
アイ=ファの左肩に手をかけて、傷めた右足をかばいながらひょこひょこと歩を進めつつ、「ギバ?」と俺は聞き返した。
「お前はそいつを狩るために、あんな落とし穴を仕掛けたんだよな? それってもしかして、あのイノシシみたいな動物のことか?」
「……いのしし?」
「ああ。色が黒くて、丸っこくて、ここんとこに角が生えてて……」
「それがギバだ。お前、見たのか?」
「見た。ていうか、追い回された。それであの落とし穴にはまっちまったんだよ、俺は」
「間抜けだな。ギバに追われたら、高い木の上に逃げるのが常道だろう」
「だから、その常道ってのが、俺にはわからないんだって」
言いながら、俺は自分がつかんでいるアイ=ファの左肩に目を落とした。
「なあ。もしかしたらこの毛皮のマントは、そのギバって動物の毛皮なのか?」
「当たり前だ。私は森辺の民、モルガのギバ狩りの民なのだからな。森辺の民は、ギバを狩り、その肉を喰らい、牙や角や毛皮を売って暮らしているのだ」
慎重に茂みをかきわけながら、不機嫌そうな目が俺を振り返る。
「……そして、石の都の住人は、そんな森辺の民を《ギバ喰い》として蔑んでいる」
「ふーん? 何でだ? イノシシって、美味いじゃん」
これまた自慢ではないが、俺は中二の冬休み、猟友会のファームキャンパスに参加して、イノシシやシカをさばいた経験もあるのである。
そのときにいただいたシシ鍋は、実に美味だった。
「……あれは『いのしし』ではなく、ギバだ。ギバの肉は、固くて臭い。ギバを喰う森辺の民も、臭い」
「臭くねえよ。お前なんか、めっちゃ美味そうな匂いをプンプンさせてんじゃん」
アイ=ファの深い青色の瞳が、いっそう不機嫌そうな光を浮かべる。
うーむ。年頃の娘さんは扱いが難しいな。
あと、アイ=ファの名誉のために言っておくと、別にこいつは肉や脂の匂いばかりを撒き散らしているわけではない。むしろ甘い果実や清涼な香草の匂いのほうが強いぐらいなのだが、それがうっすらと漂う肉の旨味の香りと絶妙な感じでからみあい、俺の食欲中枢を刺激しまくってくるのである。
「いやでも、本当にさ。俺はけっこう鼻が利くんだ。あのギバってやつは美味いよ、きっと」
「……食い物に美味いも不味いもない」
おや、そいつは暴言だな。見習いとはいえ料理人の端くれであった俺に対する挑戦か、それは?
しかしまあ、こんな状況で俺の世界の価値観を振りかざしてもしかたがない。その後はもう余計な口は叩かずに、黙然と歩くことに集中した。
そうして、15分ばかりも森を歩くと――突如として、視界が開けた。
森を、抜けたのだ。
太陽は、もう八割がた沈みかけてしまっている。
オレンジ色の残光に照らしだされるのは、ひなびた山合いの集落のたたずまいだった。
(ああ……本当に、きちんと人間が暮らしている世界なんだな、ここは)
何がなし、胸がいっぱいになってしまう。
薄暗くてよくわからないが、山地を切り開いたらしいごつごつとした岩場に、木造の小さな家屋がぽつぽつと点在している。そのいくつかには赤い火が灯っており、高い空には夕餉の煙が白くたちのぼっていた。
(……ほら、いい匂いじゃん)
獣肉の蛋白成分と、たぶん香草や香辛料の匂いが、大気に溶けている。
アイ=ファを怒らせてしまわないように腹の音をなだめるのが一苦労だった。
「森の外は、のどかでなかなかいい感じだな。この集落には、どれぐらいの数の人たちが住んでるんだ?」
「知らん。……まあ、多くて500というところだろう」
「500人? けっこうな大所帯なんだな。見た感じ、そんなたくさんの家はないみたいだけど」」
「……森辺の民は、モルガの山とジェノスの領土を分断する形で、北から南に集落を築いている。集落の端から端に至るには、半日以上もの時間がかかるのだ」
ふむ。ものすごく縦長の領土に、間遠な感じで住居を点在させている、ということか。人口密度が小さいのはのびのびとしていてけっこうな話だが、あんまり「集落」の名には相応しくないような気もしてしまう。
俺はもうちょっと情報収集を試みたかったのだが、そこに、思わぬ闖入者が登場してしまった。
「よお、アイ=ファ。その貧相な餓鬼は、何なんだよ?」
と、横合いから野太い男の声で呼びかけられたのである。
俺は大いに驚いて、アイ=ファは「ちっ」と小さく舌を鳴らした。
「何でもない。お前には関係ないだろう、ディガ=スン」
「関係ないってことはねえだろぉ? スンの家は森辺の民を治める立場なんだからよぉ」
大柄な人影が、ずかずかと近づいてくる。
それは、アイ=ファと似たり寄ったりの格好をした若い男だった。
背が、高い。我が世界の尺度で恐縮だが、180センチはあるだろう。
骨格も肉付きもしっかりしていて、体重も80キロ近くはありそうだ。
黒褐色の髪を短く刈りこんでおり、肌の色は浅黒く、瞳は青い。髪の色以外は、アイ=ファと同一だ。
その大きな身体にまとっているのも毛皮のマントと布の胴衣で、首にはアイ=ファよりも大量の牙飾りをぶらさげている。
そして、その腰に下がっているのも、やはり肉厚の大刀と小刀だ。
俺たちの進路をふさぐように立ちはだかりつつ、そいつは遠慮のない視線をぶつけてきた。
「ふうん。妙ちくりんな格好だなぁ? お前は、どこの民なんだよぉ?」
野太い声をしているくせに、何となく間延びしていて心地よくない喋り方だ。
それに、アイ=ファと同じ色の目をしているのに、こちらはどんよりと濁ってしまっている。
この世界を訪れて二番目に出会う人間様だというのに、あんまり好意的な印象を持てる相手ではないようだった。
しかし、俺とて物心ついたときから客商売に従事していた身である。
こんなていどの相手に癇を立てていたら、商売人の息子などつとまらない。そう考えて、俺はめいっぱいに愛想を振りまいてやろうと思ったのだが――
「お前には関係ない」と、アイ=ファに先を越されてしまった。
「私はスンの家に恩義などないし、それ以上に、お前という男には迷惑しかかけられていない。口をきくのも億劫だから、さっさとその無駄にでかい図体を消してくれ、ディガ=スン」
「何だと、手前……」
男の顔色が変わったが、アイ=ファの口は止まらない。
「文句があるなら、いつでも勝負してやる。そうでないなら、私の前に姿を現すな。お前は目障りだ、ディガ=スン」
そう言い捨てて、アイ=ファはさっさと歩き始めた。
その肩を借りている身としては、ひょこひょこ追従する他ない。怒りに震える若者のかたわらを横切る際は、いちおう控えめにに会釈しておいた。
「このはぐれものの偏屈女め! ギバと間違えて後ろから頭を割られないように、せいぜい気をつけるんだなぁ!」
抑制を失った男の声が、山の麓に響きわたる。
牧歌的な情景が台無しだ。
「あのさあ、よそ者の俺なんかが口を出す問題ではないのかもしれないけど。もうちょっと、ご近所づきあいってのは大事にしたほうがいいんじゃないのか?」
「……あのディガ=スンという男は、私が父親をなくしたその夜に、私を嬲りものにしようと寝所に忍びこんできた。だから、足腰が立たなくなるまで殴りつけて、川の中に落としてやったのだ」
「…………」
「それ以来、スンの家の跡取り息子に恥をかかせたという理由で、この集落に私の居場所はなくなった。……そんな相手を、大事にしろ、と?」
「前言撤回。会釈して損した。俺も一発殴ってきてやろうかな」
そう言って俺がアイ=ファの肩から手を放して立ち止まると、ものすごい勢いで右の手首をつかまれてしまった。
細いが力強い指先が、皮膚にぐっと食い込んでくる。
「何を言っているのだ、お前は。ディガ=スンなどは、殴る価値もない」
「いや、だけど、それでお前が肩身のせまい思いをするなんて理不尽だろ」
「別に肩身のせまい思いなどしていない。家族でもない相手との人間づきあいなど煩わしいばかりだし、むしろせいせいしたぐらいだ」
さっきの男とは比べ物にならないほど強くて断固とした光を浮かべた青い瞳が、怒ったように俺を見つめる。
「しかし、お前がスン家の人間を害したりしたら、お前を集落に招き入れた私がすべての責任を負わされることになる。そうなったら、今度こそ私は集落を追放されてしまうだろう。……私に野人として生きろとでも言うつもりなのか、お前は?」
「ああ……そりゃまあそうだよな。ごめん。お前の立場を考えてなかったよ。腹が減ってて気が短くなってるのかな」
すると、その言葉に賛同を示すかのごとく、腹が「ぐぎゅる」と鳴ってしまった。
俺の手首をひっつかんだまま、アイ=ファはまたぷるぷると肩を震わせ始める。
「……お前、わざとだな? お前も川に突き落とされたいというわけか?」
「わ、わざと腹を鳴らすとか、そんな器用な真似はできねえよ。ていうか、笑いたいときは笑えばいいじゃん」
「やかましい!」
アイ=ファは俺の腕を突き放し、また大股で歩き始めた。
俺は慌てて、その左肩に取りすがる。
そうしてその真っ赤になった耳とかうなじとかを鑑賞しながら、俺がぼんやり思っていたのは――「やっぱりこの世界の人間も、さわるとあったかいんだな」という、実にとりとめのない感想だった。