白の月の1日は、実にさまざまなことが起きつつも基本的には平和に終えることができた。
まるでその代償を求めているかのように、翌日からの数日間はけっこうな波乱に満ちた日々と成り果てた。
しかもそれは、その後に続く大騒動の、ほんの前菜に過ぎなかったのである。
もしもシュミラルの同胞であるシムの占星師がまだジェノスに留まっていたならば、いったいどのような運命を星から読み取っていただろうか。
先日の騒ぎのように、誰かが生命を落としたわけではない。
だけど、少しの血も流れなかったわけでもない。
そして――森辺の集落を含むジェノスの行く末は、この時期をターニングポイントとして大きく揺れ動くことになった。
結果的に、それは俺にとって正しい変転であったとは思えたものの――そこに至るまでの過程においては、先の騒動にも負けぬぐらい情動を揺さぶられることになってしまったのだった。
◇
「あれ? 今日は親父さんはお休みですか?」
朝、宿場町において。
いつも通りに必要な野菜を購入するために露店へと立ち寄った俺は、そこにドーラの親父さんではなくその息子さんの姿を見出すことになった。
ドーラの親父さんも、10日にいっぺんぐらいは店に出てこないことがある。で、その場合は2人いるという息子さんのどちらかが出向いてきて、店を切り盛りするのである。
何でもドーラの親父さんは、5つぐらいの農家と合同で大きな農園を管理しており、宿場町の手売りに関しては完全に一任されているそうなのだ。
1日の半分を宿場町で過ごし、残りの時間はすべて野菜の育成や収穫にあてている。森辺の民にも劣らぬ勤勉な生活に身を置いているらしい。
まあそんなわけで、俺が息子さんと顔を合わせるのもこれが初めてではなかったのだが――どうやらその日は、事情が違った。
がっしりとした体格と純朴そうな面差しを持つその息子さんは、いつになく真剣な目つきで俺に囁きかけてきたのである。
「親父はちょっと怪我をしてしまって、数日は仕事を休むことになってしまいました。……実は昨晩、倉庫を野盗に襲われてしまったんです」
「えっ!」と驚きの声を返すばかりで、後は言葉が続かなかった。
農園の倉庫が、野盗に襲われた――その末に、ドーラの親父さんが手傷を負ってしまった。
その突然の凶報に、俺も思考が一時停止してしまったのだ。
「大丈夫です。肩のあたりを棍棒か何かで殴られて、少し筋を痛めただけですから、数日中にはまた働けるようになるでしょう」
親父さんの息子でありターラの兄でもあるその若者は、低い声でそのように続けた。
年齢などは俺と変わらないぐらいだが、物腰は落ち着いていて、森辺の民に対しても好意的な青年である。
だけど――今日の彼は、その茶色い瞳に強い懸念の光をたたえてしまっていた。
「それで、親父からの伝言があります。実はその野盗どもは、ギバの毛皮で作った外套を身に着けていたらしいんです」
「ギバの毛皮の――外套?」
外套とはつまりマントのことだろう。
森辺の民の、狩人の衣だ。
一緒に会話を聞いていたアイ=ファとルド=ルウも、真剣な目つきになって左右から顔を寄せてくる。
「胸もとには、牙と角の首飾りも下げていたそうです。あとは暗くてよくわからなかったそうですが――つまりは、森辺の民と見まごうような身なりをしていたようなのですね」
「そいつは愉快な話だな。……で、そいつらはどんな顔をしてたんだよ? 町の人間か森辺の民か、だいたいはその顔つきや肌の色なんかでわかるもんだろ?」
ルド=ルウの問いに、息子さんは首を振る。
「顔には何か布きれのようなものを巻きつけていたそうです。肌の色は――町の人間でもよく日に焼けていれば、そこまで森辺の民との差はありませんので、よくわからなかったそうです。とにかく、ろくな明かりもない暗闇での出来事でしたから……」
「ふーん。本当に愉快な話だな」
ルド=ルウの瞳に、ゆらりと狩人の火がゆらめく。
息子さんは、ちょっとだけ顔色をなくして身を引きそうになった。
「だから親父は、何者かが森辺の民に物盗りの罪をなすりつけようとしているんじゃないかと心配していました。アスタたちには、くれぐれも気をつけるように、と――あの、それで、ひとつだけ確認させてもらいたいことがあるんですが」
と、切迫した顔つきでまた身を乗り出してくる。
「森辺の集落の罪人は、全員裁きを受けたんですよね? あなたたちの目を盗んで罪をはたらくような人間は、もういないんですよね?」
「……森辺の民は、自分たちの族長筋が罪をはたらいていたということに衝撃を受け、今後は誰にも恥じることのない生を送るべきと強く誓ったんです。俺は何百人もいる森辺の民の全員と顔を合わせたわけではありませんが、その決意を疑おうと思ったことは1度としてありません」
ようやく衝撃から立ち直ってきた俺は、そんな風に答えてみせた。
頭がはっきりしていくにつれて、怒りの激情が腹の底に渦巻いてきてしまう。
「その上で、感情に走らず抗弁させてもらうなら――森の恵みを荒らしてもそうそう他の家の人間には気づかれない、ということがスン家の所業で明らかになった今、わざわざ危険を犯してまで農園を襲おうとする森辺の民が存在するとも思えません」
「ああ……そうですよね。すみません。実は、同じ農園で働いている別の家の人間たちが頭から森辺の民を疑ってしまっているもので、そちらとも悶着が起きてしまったんです。もしもこれで森辺の民が犯人だったということになってしまうと、親父の立場が相当まずいことになりかねなかったので……」
「俺の親父は、森辺の新しい族長だ。あの親父の目を盗んで罪をはたらこうとする人間なんて、森辺の集落にはいないと思うぜ?」
と、ルド=ルウも口をはさんできた。
「たとえばさ、森の恵みを荒らすのは誇りが許さない、だけど町の人間は気に食わないから農園を襲っちまえ! ――なんて馬鹿なことを考えた人間がいたとしても、うちの親父やグラフ=ザザっていうもうひとりの族長の怒り狂った姿を想像したら、そんな考えも吹っ飛んじまうと思うんだよなあ」
相変わらずの、気安い口調だった。
しかしその胸中には、俺よりも激しい怒りの炎が燃えてしまっているのだろう。ルド=ルウの淡い色合いをした瞳には、いまやはっきりと狩人の眼光が灯ってしまっていた。
息子さんは、「あ……」と真っ青になって後ずさる。
その姿を見て、ルド=ルウは気まずそうに黄色っぽい髪をかき回した。
「怖がらせちまったか? ごめんな」
「い……いや……」
「あんたたちの信頼に応えたいと思う。心配してくれてありがとうなって、あんたの親父さんに伝えておいてくれよ。……なあ、まさかあのちびっこは危ない目にあってねーだろうな?」
「ち、ちびっこ? ターラのことですか? はい、ターラは親父の看病をしています。親父の怪我が治ったら、また一緒に町に出てくると思いますが……」
「そっか。ありがとな。――おい、シン=ルウ」
「ああ」
「悪いけど、ルウルウに乗ってこのことを親父に伝えてきてくれ」
「了解した」
こちらはいつも通りに沈着なシン=ルウがルウルウの手綱を引いて道を戻っていく。
俺たちも、自分の仕事に取りかかることにした。
ただし最後に、アイ=ファがもの思わしげな表情で息子さんに問うていた。
「ところでその森辺の装束を纏った悪漢どもは何名であったのだ?」
「はい? ……親父が見たのは、3名ていどだったはずです」
それでこの問答は終了だった。
◇
「本当に腹の立つ話だよな!」
朝一番のラッシュを終えて、各人の小休憩タイムとなった折に、ルド=ルウは不機嫌きわまりない様子でそのようにぼやいた。
「どう考えたって、こいつは町だか城だかの人間のしわざだろ。森辺の民が森辺の装束のまま顔だけ隠して何になるってんだ! ずいぶん見えすいた手を使うじゃねーかよ、なあ、アスタ?」
「うん。だけどその分、効果は甚大かもしれないね。まだまだ森辺の民と宿場町の関係性は不安定なんだから、こんな話が広まったら前の事件の二の舞になりかねないよ」
半分サイズの『ミャームー焼き』で小腹を満たしつつ、俺もそのように応じる。
小休憩を取っているのは俺とヴィナ=ルウで、かたわらにはルド=ルウとアイ=ファがいる。屋台のほうは、森辺の集落からすみやかに帰還してきたシン=ルウが見張ってくれていた。
「というか、ドーラの親父さんだって事実の内容はありのまま衛兵たちに申し述べるしかないだろうから、話そのものは町中に広がってしまうんだ。問題は、町の人たちがそれをどう受け止めるか、だね。……でもさ、これが森辺の民を陥れる罠だったとして、その黒幕は誰なんだろう?」
「ああン? そんなの、サイクレウスとかいう貴族に決まってんだろ? 他に誰がいるってんだ?」
「もうひとりいるじゃないか。森辺の民に深い恨みを持っている人間が」
「……ああ、ジーダとかいう赤毛の餓鬼か」
「うん。普通に考えたら、こんな方法で森辺の民を陥れようとするのは、ジーダのほうが相応しいんじゃないのかな?」
なおかつ、サイクレウスがこのような真似をしてどのような利が得られるのか、それが俺には想像できなかったのだ。
その反面、このように陰湿な策謀は、ジーダよりもサイクレウスのほうが似つかわしいようにも思えてしまうし――けっきょく、真相はわからない。
「……私には、3名という人数が気になった」
と、アイ=ファが低い声で意見を述べてきた。
「それはちょうどカミュア=ヨシュがジェノスの外に連れ出した狩人の人数と一致する。それは偶然なのだろうか?」
「何だよそりゃ? あのおっさんが連れていったのはルウの分家の男衆なんだぞ? まさかお前はあいつらを疑ってんのかよ、アイ=ファ?」
「そのようなわけがあるか。少しは冷静になれ、ルド=ルウよ。……私には、その3名の狩人に罪を着せようとしている悪巧みなのではないか、と思えただけだ」
その発想に、俺は驚かされてしまった。
たとえばこれで、この悪巧みを講じた者がジェノスの外にいる3名の狩人を害して、この者たちこそが農園を襲った犯人である、とでも言いたててしまえば――反証は、きわめて難しくなってしまうだろう。
しかもそれは、ルウの分家の男衆なのだ。
もしもそのようなことになったら、ルウの家の信頼は地に落ちて、ドンダ=ルウは族長の座から引きずりおろされることになるかもしれない。
(……ってことは、やっぱりサイクレウスの陰謀なのか?)
いやしかし、カミュアが森辺の狩人を率いてジェノスを出たところまでは何とか察知することができても、それがすなわちルウ家の男衆である、ということまで知る方法がサイクレウスに存在するだろうか。
わからない。
すべてが推測の寄せ集めだ。
(もしくは、ジーダともサイクレウスとも関係ないただの野盗が森辺の民に罪をなすりつけようとしているだけかもしれないし――推測だらけのこの段階で頭を悩ませても無駄ってことか)
俺は溜息をこらえつつ、さきほどからずっと静かなヴィナ=ルウのほうに目を向けてみた。
ヴィナ=ルウは、荷車の車体にもたれてうつむいてしまっている。
その右手には食べかけの『ミャームー焼き』が握られており、その左手は――右の手首にはめられたピンク色の石の腕飾りをつまんだり、指でそっと撫でたりしていた。
ヴィナ=ルウにはヴィナ=ルウの苦悩や煩悶があるのだろう。
「けっきょく俺たちはどうしたらいいんだろうな? 農園に見張りでも立てればいいのかよ?」
ルド=ルウが、また怒ったような声をあげる。
「見張りか……そうしたいのは山々だけど、農園ってのは相当に広大なんだよね? 森辺の民だけで手が足りるのかなあ」
そんな風に応じながら、俺もまた腹の底で激情が鎌首をもたげるのを感じてしまった。
数ある農園の中から、ドーラの親父さんの管理する農園が襲われたのは偶然なのかそうでないのか。俺にはその一点が何よりも気にかかってしまっていたのだ。
まさか、森辺の民と懇意にしているということで狙われてしまったのなら、ドーラの親父さんに申し訳が立たないし――俺はその犯人を絶対に許せないと思う。
西の民でありながら、誰よりも懸命になって森辺の民を擁護してくれていたドーラの親父さんが、そんな薄汚い陰謀の犠牲になるなんて許せるはずがない。
時間が経って落ち着けば落ち着くほどに、俺の体内には純然たる怒りの感情が育ってしまっていた。
頭や首の裏なんかは冷えびえとしているぐらいなのに、腹から胸にかけては溶岩のように熱いものが渦巻いている、そんな感覚だ。
はっきり言って、これほどまでに怒りをかきたてられたのは、ディガやドッドの陰謀によって眠れるアイ=ファを連れ去られてしまったとき以来かもしれなかった。
「……何という目つきをしているのだ、アスタ」
と、いきなりアイ=ファに肩をつかまれた。
「お前は美味い料理を作るのが仕事だ。その他の面倒事は私たちにまかせておけ。……そんな、狩人のような目つきをするな」
そういうアイ=ファも、俺やルド=ルウに比べれば静かな眼差しをしていたが、その奥にははっきりと怒りの火が灯っていた。
こんなやり口は、森辺の民にだって許せるはずがないのだ。
そうして俺たちがひそやかに怒りをたぎらせていると、雑木林のほうを見張っていた分家の少年がザッシュマの来訪を告げてきた。
ルド=ルウはその少年とともに警護の仕事に戻り、俺はアイ=ファとともに荷車の裏側に回り込む。
ザッシュマは、すでに昨晩の一件をわきまえていた。どうやら俺たちが商売にいそしんでいる間に、衛兵から町の人々へと告知が為されていたらしい。
「野盗の数は3名。いずれも森辺の民の装束を纏っていたが正体は不明。事実が明らかになるまでは決して軽率な行動に出るべからず、とまずは尋常に告知されていたよ。とにかく証しのない話なのだから、先日のような騒ぎを起こした者は厳罰に処す、という感じでな。……俺はこれから城下町まで出向いて、雇い主の意向を仰いでくるよ」
ザッシュマの雇い主とは、もちろんメルフリードのことである。
策を考案しているのはカミュアでも、そのための経費はメルフリードから支払われているのだ。
「あの、今回被害にあった農園に警護をつけてもらうことは可能ですか?」
「警護? そんなものは、護民兵団の仕事だ。農園に限らずジェノスの領内は護民兵団に守られているのだからな。野盗に襲われたという報告が入れば、さらに警護も強化されるだろう」
「だけど、護民兵団というのはサイクレウスの弟が指揮官なのですよね?」
「だからといって、警護の手を抜くことはできまい。そんな真似をしたら、それこそ自分たちが野盗の手引きをしていると疑われることになる。……おい、念のために言っておくが、森辺の民に警護をさせようなんて考えるんじゃないぞ? それでまたどこかの農園が襲われたりしたら、厄介なことになりかねん。もしかしたら、そうやって森辺の民を集落から引きずり出すのが目的であるのかもしれんのだからな」
「でも……」
「わかったわかった。放っておくと血の気の多い森辺の民が自衛団を結成しかねんと雇い主には念を押しておくよ。近衛兵団が目を光らせれば、護民兵団の連中もいっそう勤勉にならざるを得ないだろうさ」
そう言って、ザッシュマは何やら興味深そうに俺の顔をじろじろ眺めてきた。
「お前さんも、案外に情が強いんだな。なかなかいっぱしの目つきをするもんじゃないか」
「……知り合いが襲われたりしたら腹が立つのが当たり前でしょう?」
「ふむ。まあ荒事は俺たちにまかせておけ。向こうが動けば動くほど、つけいる隙も生まれようってもんさ」
そんな言葉を言い残して、ザッシュマは去っていった。
俺は両手で顔を叩き、何とか胸中の激情を抑えこみながら屋台に戻る。
そこで待ち受けていたのは、昨日と同じくディアルであった。
「やあ! 今日もひとつお願いね、アスタ」
宿場町での騒動も知らぬげに、今日も元気いっぱいの笑顔である。
ターラはもちろん、ユーミも今日はまだ姿を現していない。こんな折には、この感情ゆたかな少女の無邪気な笑顔が、ずいぶん癒しになってしまった。
「ねえ、君はいつまでジェノスの城下町に逗留しているんだい?」
そんな風に尋ねてみると、ディアルは『ミャームー焼き』を頬張りながら「んー?」と可愛らしく首を傾げた。
「わかんない。なんか今回はずいぶん商売の手が広げられそうでさ。本当の本当に上手くいったら、城下町に店をかまえることになりそうなぐらいなんだよね」
「店? それはこういう露店とかの話じゃなく?」
「うん。西の民を店番に雇ってさ、そこで注文を受け付けて、ゼランドの僕たちとやりとりをする、みたいな。そうしたら、僕たち自身がこんな風に御用聞きをする必要もなくなるじゃん? 実現したらすごいことなんだけど――でも、相当な稼ぎが見込めないと、そんなやり方は成立しないはずなんだよね」
と、商人の顔つきでディアルは鼻の頭をかく。
「よっぽどあの貴族のじーさまはそういう方面に顔がきくのかな。なんか、貴族がそこまで商売の話に関わってくるのって、僕としては据わりが悪いんだけど」
「据わりが悪い?」
「うん。よその国の貴族にそこまで優遇されるのって、なんか危なっかしくない?」
俺にはこの世界の常識や慣例が今ひとつ理解しきれていないので、何とも答えようがなかった。
ただ――ディアルの父親たる豪商を優遇しているのがサイクレウスだと考えると、やっぱり楽しい気持ちにはなれそうにない。
「まあそんなわけでさ。明日からはちょっと忙しくなりそうなんだよ。ジェノスにはしばらく居残ることになると思うけど、しばらくはアスタの料理も食べられないかもしれないや」
そう言って、ディアルは子犬が耳を下げるようにしょんぼりしてしまった。
つられて、俺も少なからずさびしい気持ちになってしまう。
「そうか。仕事が忙しいならしかたないけど……それは残念だね」
「え?」
「うん? どうかした?」
「あ、いや、なんか本当に残念そうな言い方だったから……」
「残念だよ。また手が空いたら、ぜひ食べに来てね?」
俺の返事に、何故か今度は目を白黒させ始めるディアルである。
「な、なんか意外だな。僕、アスタには厄介者だと思われてるんだと思ってたんだけど……」
「え、どうして?」
「どうしてって! そう思われないほうが不思議じゃない?」
はて。
それはまあ確かに第一印象は最悪であったし、顔面を2発も殴られてしまったし、アイ=ファやユーミとは一触即発の雰囲気であったし、なかなか気苦労の絶えないお客様であったのは事実だが――毎日欠かさず屋台に来てくれて、おまけにわざわざ肉切り刀まで持ってきてくれたりもしたのだから、結果的には良い縁だったなあというのが、俺の正直な感想である。
「少なくとも、今は厄介者だなんて思ってないよ。ディアルだって、自分の家の商品が気に入ってもらえれば嬉しいだろう? だから、ディアルが毎日城下町から足をのばしてまで食べに来てくれていることを、俺は嬉しく感じていたよ」
節度をもって、俺はそのように答えてみせた。
すると、ディアルは嬉しそうに――心の底から嬉しそうに、にっこりと微笑んでくれた。
翡翠のように綺麗な瞳から、喜びの光があふれんばかりだ。
「ありがとう。そんな風に言ってもらえるとは思ってなかったから、本当に嬉しいよ。……仕事が一段落したら、また絶対に食べに来るからね」
「うん、お待ちしています」
そうしてディアルは、今日も元気な足取りで帰っていった。
最後まで無言であったラービスも、黙然とそれに付き従う。
それと入れ替えでやってきたのは、サンジュラだ。
ディアルがいた間、ずっと不機嫌そうに黙りこんでいたアイ=ファが、鋭く目を光らせる。
「いらっしゃいませ。毎度ありがとうございます」
サンジュラもすでに立派な常連客なのである。
これでもう4日連続の来店となるはずだ。
「今日もひとつ、お願いします」
サンジュラのほうも、普段と変わらぬ穏やかな立ち居振る舞いだった。
というか、屋台の周囲にもとりたてて変化は見られない。以前であれば、森辺の民の格好をした野盗が現れた、というだけで一斉に懐疑の視線を突きつけられていたところだと思うのだが――これは、以前よりも森辺の民の心象はよくなっている、と前向きにとらえてもいいことなのだろうか。
「アスタ、無事で何よりです。野盗の子供、どうなりましたか?」
サンジュラにとっては、昨晩の騒ぎよりもそちらのほうが懸念の種であるらしい。
「彼はあれ以来、姿を現そうとしませんね。今は手傷の回復に専念しているのかもしれません」
昨日も今日も、警護役のルド=ルウたちがおかしな視線や気配を感じることはなかった。
ほっとする反面、とにかく言葉を交わさねば事態は進展しないので、もどかしい気持もつのってしまう。
それに――もしも彼がドーラの親父さんを襲った真犯人だとしたら、俺はどのような気分に陥ってしまうだろう。
無法な出来事により森辺の民を憎悪することになった人間が、無法な手段でその報復を行う。そんな負の連鎖は早々に断ち切ってしまわねば、悲劇的な未来しか得ることはできないと思う。
そのような不安感が俺の顔に出てしまったのか、サンジュラはちょっと悲しげに眉を下げてしまった。
「あのとき、私、余計な真似をしてしまいましたか? 左腕であったため、手加減ができなかったのです」
俺は慌てて手を振ることになった。
「サンジュラには何も非はありませんよ。そんな、お気になさらないでください! ……でも、右腕のお加減はまだ悪いのですか? ずいぶん深く傷つけてしまったのですね」
「はい。働けないので、銅貨、少し心配です」
気を取り直したように、サンジュラが微笑む。
シム人そのままの風貌をしているために、ちょっと表情を動かすだけでその内の感情がダイレクトに伝わってくる気がする。
それは、ディアルに劣らぬ安らぎをもたらしてくれる笑顔だった。
「それは大変ですね。ちなみにサンジュラは何を生業にされているのですか? 商人という感じではないですよね」
「何でもやります。でも、難しいことを考えるよりは力を使うほうが得意なので、石引きや荷運び、建築屋の手伝いなどが主ですね」
「なるほど。町から町へと渡り歩きながら、そういう仕事で稼ぎを得ているわけですか」
シュミラルは、旅こそが人生だと述べていた。シムの中でも草原に生まれた民は、流浪の民なのだ、と。
たとえ西方神の子であっても、サンジュラにもそういう血が流れているのかもしれない。
「それじゃあ、昼間は何をされているんですか? ……あ、ぶしつけであったらすみません」
「昼間は、町の見物がてら、仕事を探しています。腕、治ったら、すぐに働けるようにです。ジェノス、あまり来ないので、いろいろ新鮮で楽しいです」
左手で『ミャームー焼き』を食しながら、何かを思い出したようにサンジュラは首をひねる。
「そういえば、森辺の集落、みだりに足を踏み入れるべからず、聞きました。森辺の集落、出入りを禁じられているのですか?」
「いえ、そういうわけではないんですが。森辺の集落にはジェノスの法だけではなく森辺の掟というものが存在しまして、その内容をきっちりわきまえていないと不幸な事件が起きかねないのですよね。だから、町の人たちにはそういう警告が与えられているんだと思います」
「そうですか。ならば、私もその掟を学び、森辺の集落を訪れてみたいです」
何の邪気もなさそうな様子で、サンジュラはそう言った。
たちまち、アイ=ファが穏やかならざる目つきで割り込んでくる。
「サンジュラとかいったな。明確な用事もなく森辺の集落に足を踏み入れても、何の利も益もないだろう。お前は何のために集落を訪れたいなどと抜かすのだ?」
「理由、特にありません。異郷の人々の営み、見るのが好きなのです。森辺の民、凶悪なギバを狩る凶悪な一族、聞いていましたが、ギバの肉はとても美味しく、森辺の民はみな魅力的です。……私、森辺の民、興味がわきました」
アイ=ファもただやたらと腕が立ちそうだという理由だけでこのサンジュラを警戒しているに過ぎないので、こうもあけすけな笑顔をぶつけられると、何も言い返せなくなってしまうようだった。
仏頂面のアイ=ファに「まずは森辺の掟を学びます」と、さらなる微笑を投げかけてから、サンジュラは去っていった。
アイ=ファは頭をかきながら、八つ当たりのように俺をにらみつけてくる。
「どこからどこまでも奇妙な男だ。どうしてお前の周囲には奇妙な人間ばかりが集うのであろうな、アスタよ」
「うん? 別に奇妙な人間ばかりが集ってるわけじゃないだろ。大勢の人たちがいる中で、個性的な人たちが目立っているだけさ」
「しかし、お前はその中で奇妙な人間たちばかりと深い縁を繋いでいるように見えるが」
「それもそんな風に見えるだけさ。……第一それじゃあアイ=ファ自身が奇妙な人間の筆頭ってことにならないか? 俺なんかと真っ先に出会って親交を結んじまった人間なんだから」
冗談めかしてそう応じると、アイ=ファはいっそう難しい顔になってしまった。
「奇妙と言われてそれを否定することなど、私にはできそうにない。森辺の集落において、私ほど奇異の目で見られていた人間はいないのだろうからな」
「そうか。だったら俺も、奇妙な人間を引きつける特性があると認めて、それを誇りに思うことにしようかな」
屋台の陰で、アイ=ファが足を蹴ってきた。
そこに、森辺の民がぞろぞろとやってくる。
リィ=スドラと、ルティムおよびレイ家の少年たちだ。
「お待たせしました。仕事を代わります、アスタ」
「はい、ご苦労さまです。……あの、町のほうは大丈夫でしたか?」
すでにリィ=スドラたちにもドンダ=ルウ経由で事情は伝わっているのだろう。リィ=スドラは「はい」と静かにうなずき返してきた。
「ほんの少し普段よりもざわめいている感じはありましたが、以前ほどの緊張は見られなかったと思います」
彼女たちとバトンタッチして屋台を離れると、その言葉が正しかったことを実感することができた。
確かに、普段よりは少しだけざわついている。
不安げな目で見られたり、ハッと振り返られたりすることも多いようには感じられる。
それでも、あからさまな恐怖や怒りの目を向けられることだけは、なかった。
このタイミングで森辺の民が騒ぎを起こすのは、やはりいささかならず不自然なのではないか――と思ってくれているのだろうか。
それとも、たとえ森辺の民が犯人であったとしても、宿場町でさんざん銅貨を稼いでいるこの連中は無関係なのだろう、とでも思ってくれているのだろうか。
何にせよ、俺たちはこれといった危機感や異常を感じることなく《玄翁亭》に向かうことができた。
人通りの多い石の街道から、脇道に入って、あまり人気のない住宅区域に足を踏み入れる。が、今日もジーダは姿を現さない。
やはり、サンジュラから受けた手傷が回復するまでは姿を現さないつもりなのかもしれない。
(まずはそっちを解決できれば、気分的にはずいぶん楽になれるのになあ)
そうして《玄翁亭》に到着してからは、ちょっともめることになった。
誰が厨房に入るべきか、アイ=ファとルド=ルウの間でまた意見が割れてしまったのだ。
そういえば、ザッツ=スンらの騒ぎのときでも、この2人はもめていた。宿屋の正面口に立つのは、もっとも町の人々を刺激しないであろうと思われる女衆のアイ=ファが相応しい、というのがルド=ルウの持論であるのだ。
しかし、この《玄翁亭》は人通りの少ない区画にあり、客の出入りもほとんど見受けられない。だからアイ=ファは自分が外に立つ必要はあるまいと主張する。それに対して、アイ=ファのいない日はなかなか厨房に入る機会の恵まれなそうなルド=ルウがムキになって反論する、という構図であった。
「だいたい、お前だって女衆のように可愛らしい面立ちをしているではないか!」
「それを言うなら、アイ=ファなんてすっげー美人じゃん!」
言葉だけ聞いていると微笑ましいが、本人たちはいたって真剣である。
それに、どちらとも自分の容姿を取り沙汰されることが嫌いであるらしく、険悪の度合いも増すばかりだ。
「あのさあ、それなら《玄翁亭》ではアイ=ファが、《南の大樹亭》ではルド=ルウが厨房に入ることにしたらいいじゃないか? それなら公平だろう?」
俺の意見で、争いは収束した。
そんなわけで、アイ=ファやヴィナ=ルウとともに入店すると、受付台に座っていた主人のネイルが「ようこそ、アスタ」と立ち上がる。
しかし、その次に放たれた言葉に、俺は驚かされることになった。
「アスタ、あちらでお客様がお待ちしています」
ネイルはそのように言ったのである。
「お客様? 俺にですか?」
「はい。トゥランのミケルという方です。そう言えばわかるはずだとお客様は仰っておられたのですが」
トゥランのミケル。
ついに来たかと、俺は緊張する。
それはシュミラルが捜しだしてくれた、「サイクレウスの罪を知る人間」だ。
占星師によると、その人物との出会いによって森辺の民はいっそうの力を得る、とのことだった。
その言葉が何を意味するのか、俗人にして凡人たる俺にはさっぱりわからない。
だけどシュミラルとその同胞が述べた言葉を軽んじるつもりはなかった。
「こちらです」と、ネイルが先に立って食堂のほうに導いてくれる。
そこで待ち受けていた人物を目にして、俺は再度、驚かされることになった。
「お客様。森辺の民、ファの家のアスタがご到着されましたよ」
「ん……?」と、うるさそうにその人物が顔をあげる。
しわ深い顔をした、初老の男性だ。
布の胴衣に、筒型の足衣、いくぶん薄汚れてはいるものの、身なりにおかしいところはない。
しかし――その人物は果実酒の土瓶を片手にぶら下げたまま、木の椅子にもたれて眠りこけていた様子だった。
「お前さんが、ギバの肉なんぞで料理をこしらえているという酔狂な料理人か……何だ、小便臭い餓鬼じゃあねえか」
黄褐色の顔は真っ赤に染まり、舌もあまり回っていない。
その人物は、このような日中から完全に酩酊し果てていたのだった。