そうして、太陽が西に沈みかけた頃、アイ=ファたちはようやくトゥラン伯爵邸の門をくぐることが許された。
箱形の車を降りると、薄闇の中に石造りの巨大な館がそびえたっている。
ポルアースと、それに3名の護衛の兵士たちとともに、その灰色をした建物と相対する。
アイ=ファの腰に、刀はない。
刀は、ポルアースが携えている。
が、それも屋敷の入口で取り上げられてしまうらしい。
文字通り、アイ=ファたちは徒手空拳でこの悪の巣窟に乗り込むのだ。
「ようこそいらっしゃいました……こちらにどうぞ……」
玄関口でアイ=ファたちを迎えたのは、金色の髪と白い肌を持つ背の高い女衆であった。
その瞳が紫色をしていることに気づき、これもマヒュドラの民なのかもしれぬとアイ=ファはこっそり考える。
ポルアースの準備した護衛の兵士たちは、玄関近くの控えの間で待機するようだった。
ポルアースとふたりで、燭台の取りつけられた回廊の奥深くに案内される。
アイ=ファは両手を腹の前で組み、しずしずと歩いていた。
歩幅も、いつもの半分ていどである。
トゥラン伯爵家からの返事を待っている間、そういった淑女のふるまいとかいう城下町の作法も指南されることになったのである。
これで自分が、城下町に相応しい人間に見えるのだろうか。
アイ=ファにはさっぱりわからない。
しかし、案内をする金髪の娘にも、それに追従するトゥラン家の兵士たちにも、とりたてていぶかられることはないようだった。
「よくぞいらしたわね、ポルアース殿。まもなく晩餐の準備も整うところよ」
やたらと豪奢な織り物を壁に張りめぐらせた大きな部屋で、その娘は待ちかまえていた。
栗色の髪をした、小さな娘である。
むやみにひらひらした純白の装束を纏っており、いかにも貴族めいた顔立ちと目つきをしている。
この娘が、従者に命じてアスタをさらわせたのだ。
しかし、アイ=ファは冷静につとめることができた。
自分でも驚くぐらいに、アイ=ファの心は静まりかえっていた。
まるでギバ狩りの最中であるかのように、アイ=ファの心は厳しく張りつめ、鋭く研ぎすまされていたのであった。
(……後ろに控えたこの男が、悪漢の片割れだな)
妙にずんぐりとした甲冑姿の男が、娘の背後に控えている。
宿屋の主人から聞いていた通りの風体であった。
ただし、あのサンジュラという男の姿はどこにもない。
あの男がいた場合はおたがいに顔を見知っていたので、その場で罪を告発することができたのだが、その道は閉ざされてしまったようだ。
だけど、アイ=ファにはそのほうが都合がよい。
アスタの所在もわからぬうちに、ことを荒立てたくはなかった。
「ふうん。そちらがシムの血を引く豪商の娘であるわけね?」
貴族の娘――リフレイアは、そのように言いながら遠慮のない視線をアイ=ファに向けてきた。
なるべく口をきかぬように、相手の目を真っ向から見返したりはしないように、と言い含められていたので、アイ=ファは静かに相手の胸もとあたりを見つめ続ける。
「はい。祖父方がシムの血筋であるそうです。彼女自身はベヘットの生まれで、父親とともに野菜の買い付けにいらしたのですよ。名前は、アイーファと申します」
「へえ。だけど、父様は明日の朝まで戻らないのよ。トゥランのフワノとママリアがお目当てだったのなら、お生憎様だわ」
「それはもちろんわきまえております。必要があれば、明日にでも彼女の父親からサイクレウス卿に商売の話が届けられるでしょう。今宵はトゥラン伯爵家の晩餐にお招きいただけただけで十分でありますよ」
言いながら、ポルアースがアイ=ファにうなずきかけてくる。
アイ=ファは無言のまま胸の前で腕を交叉させ、リフレイアに小さく頭を下げてみせた。
「気取った娘ね」とリフレイアは不満げに言い捨てる。
「まあいいわ。それじゃあ席に着いてちょうだい。今日は面白い趣向を用意させてもらったから」
「それは楽しみです。僕もトゥラン伯爵家の晩餐にご同席させていただくのは数年ぶりのことですからねえ」
金髪の女衆の案内で、アイ=ファたちは向かって左側の席に座らされた。
卓の上には、すでに匙や鉄串や酒盃などが並べられている。
そして、アイ=ファたちの向かい側にも同じものが2名分準備されていた。
「おや。僕たちの他にも参席される方々がおられるのですかな?」
「ええ。ずいぶん前から父様の客人がこの屋敷に居座っているの。ジャガルから出向いてきた鉄具屋の商人とその娘ね」
その言葉で、アイ=ファはひそかに息を飲むことになった。
サイクレウスの屋敷には、あのこまっしゃくれた娘も逗留していたのだ。
どうしてこんな重要な話を失念してしまっていたのだろう。
もしもあの娘が、アイ=ファの素性を明かしてしまったら――やはり、その場でリフレイアの罪を告発するしかない。
(心を乱すな。そのときは、あの護衛の兵士が人相書きと同じ風体をしていることを証しにするだけだ。かなうことなら、アスタの所在を確認するまで荒事には及びたくなかったが――いざとなったら、貴族の娘の身柄をおさえてしまえばいい)
刀はなくとも、それぐらいのことは造作もない。
アイ=ファがそのように考えたとき、客人の来訪が扉の外から告げられた。
「遅くなってしまい申し訳ありませんでした。商売の話が思いのほか長引いてしまったのです」
まずは、いかにも南の民らしい壮年の男が部屋に入ってきた。
それに続いて、小柄な娘も入室してくる。
今日はずいぶん娘らしい装束を身に纏っており、短い髪には飾り物などをつけていたが、それはやはり宿場町の屋台で出会ったジャガルの娘であった。
以前に顔を合わせたときよりもずいぶん元気のない顔をしており、緑色をした目も力なく伏せてしまっている。
「おや、そちらの方々はどなたでしょうかな?」
「ダレイム伯爵家の第二子息ポルアース殿と、その客人のアイーファよ。ベヘットから野菜の買い付けに来た商人の娘らしいわ」
「ほう、ダレイム伯爵家の……お初にお目にかかります。わたしはジャガルのゼランドからおもむいてきた鉄具屋のグランナルと申します。こちらは娘のディアルですな」
「どうぞよろしく。ポルアースです」
にこにこと笑うポルアースと頑固そうな顔をしたグランナルが挨拶を交わす。
そこで、グランナルの娘ディアルはようやく面を上げて、アイ=ファたちのほうを見た。
その目が、驚愕に見開かれる。
アイ=ファはわずかに腰を浮かせて、万事に備えた。
が――ディアルはぎゅっと口を結び、どういった言葉も発しようとはしなかった。
「それでは、晩餐を始めましょう。料理を運んできてちょうだい」
「はい……」
金髪の娘が室を出ていき、やがて数々の料理が運ばれてきた。
いずれも立派な皿に載せられた、見たこともないような料理ばかりである。
これらのいずれがアスタの手による料理なのか、アイ=ファはひそかに目を凝らすことになった。
皿は、ひとりにつき三つずつある。
たったこれっぽっちで腹が膨れるのかという、いずれもささやかな量である。
「さあ、召し上がれ。トゥラン伯爵家の料理人たちが腕によりをかけた晩餐よ。まずは前菜と、汁物と、フワノの料理ね」
自慢たらしく、リフレイアが述べる。
しかしアイ=ファは、どの料理にもあまり心を引かれなかった。
小さな小皿に、やたらと酸っぱい匂いをした野菜がちんまりと載せられている。
汁物料理は、奇妙に甘い香りがしていた。
その隣で湯気をたてているのは、とろりとした汁がかけられた、丸めたポイタンのような料理だ。
「おお、これは見事なものですな。アイーファをお連れした甲斐があったというものです」
ポルアースは、これは演技でなく嬉しそうな笑顔を見せていた。
きっと、食べることが好きなのだろう。いささかならずゆるみきった身体つきを見るだけで、それは察せられる。
(……城下町で、アスタはこのように珍妙な料理を作らされていたのか?)
他の者たちにならって、アイ=ファもそれらを口にすることにした。
しかし、やっぱり釈然としない。
緑と赤の野菜の煮付けは、匂いの通りにとても酸っぱかった。腐った果実酒のように酸っぱい汁が、これでもかというぐらいに混ぜ合わされていたのだ。
汁物料理は、どろりとしていて、脂がきつかった。
匂いは甘いのに、味は辛い。きっとさまざまな香草と一緒に煮込まれているのだろう。具材はギバでない何かの肉と、チャッチと、プラと、あとは名前も正体も知れない野菜だ。
丸められたポイタンのような生地の中にも、細長く刻まれた肉と野菜が詰め込まれていた。
先の料理に比べれば食べにくいことはないが、塩とタウ油がききすぎている。それにやっぱり、香草の香りが強い。
(……違う)
これは、アスタの料理ではない。
何の証しもないままに、アイ=ファはその事実を確信していた。
アイ=ファの知らない材料を使えば、アイ=ファの知らない味の料理に仕上がってしまうものなのかもしれない。
だけど、何かが違うのだ。
これらの料理から、アイ=ファはアスタの存在を感じ取ることはできなかった。
(もしかしたら――私たちは、あのジーダという者にたばかられてしまったのか?)
この屋敷に、アスタはいないのかもしれない。
強く張り詰めていたアイ=ファの心に、初めて不安の影がよぎった。
「いやあ、どれもこれも美味ですなあ。料理長は城に出向いているというお話であったのに、実に見事な料理ばかりです」
ジャガルの客人が黙々と食しているので、ポルアースだけが賞賛の声をあげていた。
リフレイアは、「ふふん」と鼻を鳴らしている。
「この屋敷には何人もの料理人が住まっているのだから、料理長ひとりが席を空けたところでどうということはないわ。それに、お楽しみはこれからなのよ」
空いた器を、黄色い装束を纏った小姓たちが下げていく。
そして、新たな皿が室に運ばれてきた。
「さあ、野菜料理と、主菜の肉料理よ」
三つの皿が、またそれぞれの前に並べられた。
朱色の汁をまぶされた、野菜の料理。
香草と一緒に煮込まれた、骨つきの肉。
そして、うっすらと焦げ色のついた肉の料理だ。
アイ=ファは、順番に手をつけることにした。
野菜の料理は、甘くて辛くて酸っぱかった。
やっぱりあの、腐った果実酒のようなものが混ぜ合わされており、そこに香草の辛さと、それに奇妙な甘ったるさが溶けこんでいる。
不味い、というほどではないが、何だか舌に馴染まない味だ。
先の料理と同じように、とにかく味が強すぎるのが主たる原因なのかもしれない。
骨つきの肉は、とてもやわらかくて、これまでの料理の中では一番美味であった。
何か小さな動物の足の肉なのだろう。緑色をした煮汁にまみれており、その上から小さく刻まれた赤い香草がふりかけられている。
鉄串――ではなく銀かもしれないが、とにかくその串でつついてみると、肉はあっけなく骨から剥がれ落ちてしまう。落とさずに食べるのが難儀なほどのやわらかさで、口に入れてみると、少し辛い香草の風味が肉の味にとても合っているように感じられた。
そして、最後の肉料理は――それよりも、さらに美味であった。
焦げ色のついた周りの衣が、さくさくとしていて心地好い。そしてその下には肉汁をたっぷりふくんだやわらかい肉が待ち受けており、噛み締めるとミャームーの香りがほのかに香った。
ミャームーだけでなく、きっとタウ油も使われているのだろう。ほどよい塩気が、肉汁とともに口の中に広がっていく。
いささか油がきついような気もするが、上からかけられたシールの果汁の酸味がそれをほどよく中和してくれていた。
それに、その料理にはティノやアリアなどを細く刻んだ生の野菜がたっぷりと添えられており、それらを一緒に食すと余計に美味に感じられた。
野菜が肉を、肉が野菜を、それぞれ引き立てているのだ。
その野菜にも、何やらシールとは異なる酸っぱい汁と、ギバの脂でない油を混ぜ合わせたようなものがかけられているようだったが、それはむしろ生の野菜の味気なさを補強しつつ、ひかえめに彩りを加えているように感じられた。
(これだ……)
これがアスタの料理に違いない。
ミャームーとタウ油を使った肉の味付けや、生の野菜を細く切るという作法は、確かにアスタと同一のものである。
ただし、肉を包むこの茶色い衣の正体は不明であったし、肉もギバのそれではない。アイ=ファにとって、完全に未知なる料理である。
それでもアイ=ファは、これがアスタの料理なのだろうと信じることができた。
アスタはやっぱり、この屋敷で料理を作らされていたのだ。
胸中に渦巻くさまざまな激情をおさえこみ、アイ=ファはその美味なる料理を食し続けた。
「うん、僕はこっちの料理のほうが好きだな」
と――それまで黙りこくっていたディアルが、ふいに声をあげた。
見ると、その手には銀色の串に刺されたアスタの料理がある。
「キミュスの骨つき肉もとっても美味しかったけど、この揚げ物のほうはそれよりもっと美味しいと思う」
「うむ。わたしも娘に賛同いたします」
ディアルの父親も、鹿爪らしくそのように述べる。
同じ料理を食しながら、ポルアースは「はて?」と太い首を傾げた。
「そういえば、肉料理だけが何故かふた皿準備されておりましたね。もしかしたら、これは味比べの余興だったのでしょうか?」
「そうよ。片方は副料理長の料理で、もう片方は最近この屋敷で雇った新参の料理人の料理なの。ポルアース殿は、どちらに軍配を上げるのかしら?」
「そうですね。確かに骨つき肉の味付けも素晴らしいものでありましたが、僕も僅差で揚げ物料理のほうに軍配を上げたいと思います」
「ベヘットからのお客人は?」
アイ=ファは静かにリフレイアの笑顔を見返した。
「私も、こちらの料理が美味だと思う」
「全員が揚げ物料理を選ぶのね! わたしも同じ意見よ! さあ、それじゃあどちらがどちらの料理なのかを明かしてもらいましょうか?」
リフレイアの呼びかけに、小姓がおごそかに頭を下げた。
「骨つき肉が副料理長の料理であり、揚げ物のほうが新参の料理人の料理となります」
「やっぱりね! これで五夜連続、新参者の勝利だわ! 副料理長のティマロはかつて《セルヴァの矛槍亭》で料理長をつとめていたぐらいの腕前であるのに、これは驚くべき結果よね!」
「うん、さすがは渡来の民の料理人だね。今まで食べたことのないような不思議な料理ばかりで感心してしまうよ」
妙に取りすましたような顔で、ディアルはそのように述べた。
ポルアースが、丸っこい身体をぐっと乗り出す。
「渡来の民? それは渡来の民の料理人なのですか? ジェノスに渡来の民が訪れたなどという話は耳にしたこともなかったのですが」
リフレイアは舌打ちをこらえるような表情を一瞬見せかけたが、それはすぐに自慢げな笑顔に取って代わられた。
「あまりおおっぴらにはしたくなかったけど、実はそうなのよ。おかしな騒ぎになってしまったら困るから、他言無用でお願いするわ」
「ほほう、それは興味深い! 良かったら、僕にも直接ご挨拶をさせていただけませんか? 美味なる料理への報酬として、手ずから銅貨を渡したいと思います」
「あら、銀貨じゃなくって銅貨なの?」
「ええ、一夜の晩餐で銀貨を支払えるほどダレイム家は豊かではないもので」
「そう……別にかまわないけど、ただし、さっきの約束だけは守っていただけるようにお願いするわ」
「他言無用ですね。了承いたしました」
アスタが、この場に招かれるのだ。
アイ=ファの胸が、どくどくと脈打ち始めた。
冷静であれ――と、自分を叱りつける。
ここからが、自分の戦いなのだ。
決して失敗は許されない。
決して取り乱してはならない。
その後は、甘い菓子とかいう料理もふるまわれたが、アイ=ファにはまったく味を知覚することもできなくなっていた。
そうして客人の全員が食事を終えるのを待ってから――ついに、扉が叩かれた。
「渡来の民の料理人をお連れしました!」
小姓ではなく、兵士の声であった。
扉が、ゆっくりと開かれる。
そうして、そこから姿を現したのは――
アスタであった。
まぎれもなくアスタであった。
見覚えのない白い装束を着させられている。
ギバやグリギの首飾りもしていない。
ほんの少しだけ、頬のあたりの肉が落ちてしまっただろうか。
しかし、その黒い瞳から力は失われていない。
アスタは口を引き結び、挑むように視線を巡らせて――
そして、アイ=ファのほうを見た。
その目が、驚きに見開かれる。
信じ難いものでも見たかのように、己の正気を疑うかのように、その顔が呆然と表情を失っていき――
そしてその目が、ふいに歓喜の光をくるめかせた。
表情を失った顔の中で、ただその瞳だけがきらきらと輝いていた。
……ようやく会えた。
……お前に会いたかった。
……絶望にまみれた生活の中で、ただその思いだけを噛みしめていた。
アスタの瞳は、そのように語っているかのようだった。
あるいはそれは、アイ=ファ自身の思いであるのかもしれなかった。
だけどそんなものは、どちらでも良かった。
アイ=ファとアスタは、再び巡り逢うことがかなったのだ。
この結果がすべてであった。
アイ=ファの瞳にはアスタの姿が映り、アスタの瞳にはアイ=ファの姿が映っている。
それ以外のことは、どうでも良かった。
「やはり、間違いはなかったようだ」
半ば無意識に、アイ=ファはそのように語っていた。
「その者こそが、私の家人、ファの家のアスタである。そうとわかったからには、この場で連れ帰らせていただこう」
私の家人だ。
私のアスタだ。
アスタを絶対、余人に渡したりはしない。
そのような思いだけを胸に、アイ=ファは許されざる運命を打破すべく、リフレイアのほうに向きなおった。
◇
そうしてアイ=ファは、アスタを手中に取り戻したのだった。
問答の途中でサイクレウスが姿を現したが、無駄に抗おうとはしなかった。
自分の娘の不始末を、心底から怒っている様子であった。
また、格下のポルアースが頑強にリフレイアの罪を追及し続けることを、いささかならず不審と警戒の目で見ていたように思う。
森辺の族長には、明日じきじきに詫びの言葉を述べるという。
悪行に及んだ3名に関しても、必ずジェノスの法のもとに罪を償わせると言った。
やはりこれは、サイクレウスの計略の外の話であったのだ。
森辺の民が刀を取ってしまっていたならば、取り返しのつかない騒ぎになっていたかもしれない。
だけど今は、そのようなことすらどうでも良かった。
アイ=ファは、アスタを取り戻すことができたのだ。
「あの、着替える間、俺と家長をふたりにさせてもらえませんか?」
アスタがそのようなことを言い出したので、敵陣でふたりきりになることになってしまった。
だが、まだ我を失ってしまうわけにはいかない。
灰色の石でできあがった広々とした部屋の中で、アイ=ファは静かにアスタの姿を見つめ返した。
「アイ=ファ……」
アスタはまだ自失したままのようであった。
ただその黒い瞳だけに、さまざまな感情が渦巻いている。
アイ=ファもまたあふれかえりそうになる激情を力ずくでねじふせながら、アスタの身に異常がないかを上から下まで検分した。
大丈夫だ。
いくぶん痩せてしまったぐらいで、それ以外に変わりはない。
アイ=ファはひそかに息を整えつつ、言った。
「……どこにも手傷などは負っておらぬか?」
アスタはぼんやりと首を振る。
「ああ、見ての通り、身体のほうは元気そのものだよ」
「……そうか」
アスタは何だか、ものすごくもどかしげなようにも見えた。
己の内にあふれかえる感情を、どのように扱えばいいのかもわからないのだろう。
そんなもの、アイ=ファにだってどう扱えばいいのかもわからない。
とっとと着替えてしまえばいい。
そうして森辺の集落に――ファの家に帰るのだ。
無事に再会を果たせた喜びは、その際に交わし合えばいいではないか。
でないと、アイ=ファはもうこれ以上自制がききそうになかった。
それなのに、アスタはまだ黙ろうとせずに、「アイ=ファ、俺は……」などと呼びかけてきた。
アスタの声を聞いているだけで、理性が崩壊してしまいそうになる。
だからアイ=ファは、手をかざしてアスタを黙らせた。
とっとと着替えろ――そう言おうとした。
しかし、咽喉が詰まって言葉を発することができなくなってしまった。
ふいに視界が、ぐにゃりと歪む。
己の意志に反して、涙が浮きあがってしまったのだ。
アスタの姿が、見えなくなってしまう。
嫌だ。
アスタの存在を、もっと間近に感じていたい。
もう限界だった。
これ以上、自分を律することは不可能であった。
そうして気づくと、アイ=ファはアスタの名を呼び、その身体を抱きすくめてしまっていた。
アスタの温もりが、全身からアイ=ファの体内に流れ込んでくる。
この温もりだ。
この温もりを欲していたのだ。
「アスタ……」
アイ=ファは、泣いてしまっていた。
壁一枚の向こうには、敵方の兵士やポルアースたちが控えているのに、そのようなことを危惧する気持ちも消失してしまっていた。
人はあまりに安堵すると、このように泣けてしまうものなのか。
そんな思いもやがて頭から飛んでいき、アイ=ファは泣いていた。
子供のように声をあげて泣いてしまっていた。
ギバの牙の前に倒れた父の前で、二度とこのようにぶざまな姿はさらさないと誓ったのに。
全部、アスタが悪いのだ。
アスタの存在が、こんなにも自分を揺さぶってしまうのだ。
「アスタ……この大馬鹿者……」
アスタは何度も「ごめん」と言いながら、同じぐらいの強さでアイ=ファを抱きすくめてくれていた。
いっそこのまま身体がとけあって、二度と離れられぬようになってしまえばいい。
そのようなことを思いながら、アイ=ファは泣いた。
そうしてアイ=ファとアスタの身に訪れた災厄の日々は、5日目の夜にしてついに終わりを遂げたのだった。