そして――どれほど幸福な時間にも、やがて終わりがやってくる。
すべての宴料理が底をつき、何十本もの果実酒の土瓶が空となって、なおもしばしの談笑を楽しんだのち、ついにその刻限がやってきた。
ドンダ=ルウによって祝宴の終了が告げられると、人々は最後の歓声をあげてから、帰り支度に取りかかる。何台もの荷車がルウの集落を後にして、残されたのはルウ家の人々と、ごく一部の客人たち――俺とアイ=ファと、宿場町から招かれた5名のみであった。
宿場町の客人たちは、分家の人々によってそれぞれの寝床へと導かれていく。ターラだけは本家で寝所を借りる予定であったが、それはのちほど改めて案内されるらしく、いまはユーミたちと一緒にダルム=ルウの家へと向かっていた。
それらの人々が姿を消すと、広場にはごく少数の人間だけが取り残された。
ルウの本家の人々と、リリンの家の人々だ。
リリンの家人は、ヴィナ・ルウ=リリンを加えて17名――ただし、そのうちの7名は幼子であるので、荷車は2台しか準備されていない。本家の5歳の長兄も、祝宴のさなかにぐっすり寝入ってしまったらしく、ウル・レイ=リリンの手に抱かれて荷台へと運ばれていった。
「では、ヴィナ・ルウ=リリンはリリンの家人として、本日から俺たちと過ごしてもらう。最後に、挨拶をしておくといい」
ギラン=リリンが、穏やかな口調でそのように述べていた。
そのかたわらにはヴィナ・ルウ=リリンとシュミラル=リリンのみが控えている。
それと相対するのは、ルウ本家の人々と、ダルム=ルウおよびシーラ=ルウ、そして特別に立ちあいを許された俺とアイ=ファであった。
「いままで、どうもありがとう……長姉がこんな不出来な人間で、大変な苦労をかけさせてしまったわよねぇ……ドンダ父さん、ミーア・レイ母さん、ティト・ミン婆、ジバ婆……みんなみたいに立派な人間から、どうしてわたしみたいに不出来な人間が生まれてしまったのか、わたしはずっと不思議でならなかったわぁ……」
この時間だけは、これまで通りの名で家族を呼んでも許されるのだという話であった。
逆に言えば、明日からは呼び方を改めることになる。もちろん、ルウ本家のやんちゃな兄妹たちが、いまでも家を出た兄を「ダルム兄」と呼ぶように、人目がないときには「ヴィナ姉」と呼ぶことも許されるのかもしれないが――もはや彼女は、ルウ本家の長姉ヴィナ=ルウではなく、リリン本家の家人たるシュミラル=リリンの嫁、ヴィナ・ルウ=リリンであるのだった。
ルウの本家の人々の胸には、いったいどのような感情が渦巻いているのか。
まず真っ先に声をあげたのは、ミーア・レイ母さんであった。
いつも通りの大らかな表情で、「何を言ってるんだい」とヴィナ・ルウ=リリンに笑いかけている。
「まあ、たしかにあんたはちょいと変わり者だったけどね。でも、あたしにとっては自慢の娘さ。性根は優しいし、身体は丈夫だし、びっくりするぐらい器量よしだし、こんな年まで婚儀をあげられなかったのが不思議なぐらいだよ。ねえ、ドンダ?」
「ふん。それはこいつが、婚儀の申し出を片っ端から断っていたからだろうが? 何も不思議な話じゃねえ」
ぶすっとした顔で、ドンダ=ルウはそのように言いたてた。
心なし――族長ではなく、父親の顔をしているように感じられてしまう。
「そのあげくに、選んだのがシュミラル=リリンだからな。変わり者は、変わり者とくっつく運命にあるんだろうぜ。……せいぜいリリンの家に迷惑をかけないように心がけることだな」
「ありがとう、ドンダ父さん、ミーア・レイ母さん……それに、ジバ婆とティト・ミン婆も……」
「ああ……あたしにとっても、あんたは自慢の血族だよ……あんたが変わり者なのは、きっとあたしの血筋なんだろうさ……」
「それを言ったら、ルウの血族は変わり者の集まりってことだねえ。まあ、それも間違っちゃいないように思うよ」
ジバ婆さんとティト・ミン婆さんは、それぞれ温かい笑顔でヴィナ・ルウ=リリンを見つめている。
そちらにうなずき返してから、ヴィナ・ルウ=リリンはコタ=ルウを抱いたサティ・レイ=ルウへと向きなおった。
「サティ・レイ……あなたにも、たくさん迷惑をかけてしまったわねぇ……わたしにおかしな相談事ばかり持ちかけられて、さぞかし困っていたでしょう……?」
「そんなことはありませんよ。きっとわたしも、変わり者の部類なのでしょうから。あなたと過ごした日々は、決して忘れません」
「ありがとう……コタにも、よろしく伝えておいてねぇ……?」
「はい。きっとコタもさびしがるでしょうから、ルウの集落にやってきたときには顔を見せてあげてください」
2歳児のコタ=ルウは、もちろんすやすやと寝入ってしまっているのだ。その寝顔に優しく微笑みかけてから、ヴィナ・ルウ=リリンはサティ・レイ=ルウの伴侶へと目を向けた。
「ジザ兄……あなたこそ、不出来な妹にはやきもきさせられたでしょう……? わたしが一番申し訳なく思っていたのは、ジザ兄なのよねぇ……」
「そうか」と、ジザ=ルウは静かに答えた。
糸のように細い目をした、いつでも微笑んでいるように見える面立ちである。しかし、いまのジザ=ルウは本当に微笑んでいるのだということを、俺が見誤ることはなかった。
「だったらそれは、杞憂だったな。6人いる兄弟の中で、とりわけヴィナが手間のかかる人間であったという覚えはない」
「あらぁ……そうなのぉ……?」
「うむ。他の兄弟とて、それぞれ手間のかかる人間であったからな。……そして俺も、きっと手間のかかる兄であったのだろう」
とても落ち着いた声の中に、とても優しいものを感じる。俺はたぶん、ジザ=ルウが家族にしか見せない顔を、いま初めて目の当たりにしているのであろうと思われた。
「俺はルウ本家の長兄として、常に正しくあらねばと考えている。その考えは、いまでも変わらない。しかし、同じ家で過ごす兄弟たちには……とりわけそれが幼かった頃には、さぞかし窮屈で、居心地の悪い思いを抱かせてしまったことだろう」
「そんなことは、決してないわよぉ……そりゃあジザ兄は、ときどきドンダ父さんよりも怖く思えるときがあったけど……そういうときは、たいてい自分が悪かったんだもの……ジザ兄が、そんな風に正しく生きようとしてくれたから……わたしはきっと、取り返しのつかない過ちを犯さずに済んだのよぉ……?」
そう言って、ヴィナ・ルウ=リリンは静かに微笑んだ。
「わたしはジザ兄のことを、心から尊敬していたわぁ……どうして自分はジザ兄みたいに正しく生きることができないんだって、苦しく思うときもあったけれど……でも、それを乗り越えることができたからこそ……今日という日を迎えることができたの……」
「そうか」と、ジザ=ルウも微笑んでいる。
「リリンの家でも、心正しく生きてほしいと願う。その行いこそが、ヴィナを幸福にしてくれるはずだ」
「ありがとう……ジザ兄も、どうか元気でねぇ……ふたり目の子が生まれる日を、楽しみにしているわぁ……」
そうしてヴィナ・ルウ=リリンの目が、次兄の仏頂面へと差し向けられた。
「ダルムも、あまり無茶はしないでねぇ……? あなたはちょっと優しすぎるから、ときどき心配になっちゃうの……」
「馬鹿を抜かすな。人のことより、自分の心配をするべきであろうが?」
「その台詞は、そっくりそのままお返しするわよぉ……あなたは人の心配ばっかりして、自分のことはなかなか顧みないから、わたしも心配になってしまうのよぉ……?」
ヴィナ・ルウ=リリンは、くすりと小さく笑い声をたてた。
「あなたが怪我をするのは、いつも他の人間をかばったときばかりだったし……わたしが木から落ちたときも、あなたは無茶な受け止め方をしたでしょう……? あれだって、ちょっと間違えたら魂を返すことになっていたんじゃない……?」
「いったい、いつの話をしているのだ。そのような話は、覚えてもおらん」
「嘘ばっかり……虚言は罪なのよぉ、ダルム……? 意地っ張りで、優しくて、とても強い力を持ったあなたは、わたしの自慢の弟だったわぁ……これからも、ダルムのことをよろしくねぇ、シーラ=ルウ……?」
「はい。ダルムとふたりで力を合わせて、立派な家を築きたいと思います」
シーラ=ルウも、万感の思いを込めて、ヴィナ・ルウ=リリンを見つめ返している。
ヴィナ・ルウ=リリンはひとつうなずいてから、末弟を振り返った。
「あなたは兄弟の中で一番やんちゃなのに、不思議と心配にはならないのよねぇ……アスタと出会ったぐらいの頃から、ますます頼もしくなったように思えるわぁ……」
「へん。それでもまだ、親父にもジザ兄にも力比べでは勝てねーし、ようやくダルム兄と五分の勝負ができるようになったぐらいだけどな」
頭の後ろで手を組んだお得意のポーズで、ルド=ルウは陽気に白い歯をこぼした。
「ま、ヴィナ姉がやっと嫁入りできて、ほっとしてるよ。シュミラル=リリンがジェノスを出ていってもめそめそしないで済むように、さっさと子でも産んじまえよなー」
「もう……ひと月やふた月で、子を産めるはずがないでしょう……?」
玉虫色のヴェールの向こうで、ヴィナ・ルウ=リリンが頬を赤らめる。
だけど、その目は笑っているようだった。
「本当に、立派になったわよねぇ……あなたはなかなか身体が大きくならなかったから、そういう意味では心配だったんだけど……まさか、そんな若さで力比べの勇者になれるなんて、わたしは想像もしていなかったわぁ……あなたは身体が小さかった分、ジザ兄やダルムよりも強い心を授けられたんじゃないかって……最近では、そんな風に思うこともあったの……」
「うっせーなあ。俺だって、まだ大きくなってる途中なんだからな? そのうち、ジザ兄もダルム兄も追い越してやるよ」
ルド=ルウは、べーっと舌を出す。
それを見つめるヴィナ・ルウ=リリンは、とても幸福そうだった。
「あなたはその強さと明るさで、家族のみんなを支えてあげてねぇ……頼りにしてるわよぉ、ルド……?」
「あー。ヴィナ姉も、リリンの連中の力になってやれよなー。いまではそれなりのかまど番になれたんだからよー」
「うん、ありがとう……わたしも頑張るわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンが、レイナ=ルウへと目を向ける。
レイナ=ルウは、いつも通りの面持ちで微笑んでいた。
「レイナ……今日は、素敵な宴料理をありがとう……アスタと一緒に作ってくれた料理も、あなたがひとりで考案した料理も……わたしはこの先、魂を返す日まで忘れられないと思うわぁ……」
「うん。ヴィナ姉とシュミラル=リリンのために、すごく頑張ったからね」
「あなたも……強くなったわねぇ……もともと気は強いほうだと思っていたけれど……アスタと出会って、かまど番としての修練を始めてからは、まるで別人みたい……時々は、その強さが妬ましいほどだったわぁ……」
「え? ヴィナ姉が、わたしを妬ましく思ってたの?」
レイナ=ルウは、心から驚いたように目を見開いた。
ヴィナ・ルウ=リリンは少し恥ずかしそうに、「うん……」とうなずいている。
「シュミラルがジェノスに戻ってくるまで、わたしは毎日思い悩んでいて……自分がどんな風に生きるべきか、完全に見失ってしまっていたの……でも、あなたは毎日、料理の修練に打ち込んでいて……それがものすごく、まぶしく感じられてしまったのよねぇ……」
「そうなんだ……ヴィナ姉がそんな風に思ってたなんて、わたしはちっとも気づけなかったよ」
「それぐらい、あなたは料理の修練に没頭していたということよぉ……まるで男衆が狩人の修練に打ち込むみたいに、あなたは料理の修練に打ち込んでいて……森辺の女衆でもこんな風に生きられるんだって、わたしは打ちのめされることになったのよねぇ……」
ヴィナ・ルウ=リリンはまぶたを閉ざすと、何かを懐かしむように微笑んだ。
「わたしは森辺での生活を、退屈なものだと思ってしまっていたわぁ……みんなはとても幸福そうなのに、わたしだけがそれを不満に思っていて……わたしは不出来な生まれ損ないなんだって思い込んでしまっていたのよぉ……だから、森辺で婚儀をあげる気にもなれなかったし……外の世界からやってきたアスタに、おかしな気持ちを抱いてしまったのよねぇ……」
レイナ=ルウはいくぶん気まずそうに、「うん……」とうなずいた。
しかしヴィナ・ルウ=リリンは、穏やかに微笑んでいる。
「もちろんシュミラルと出会ってからは、そんな気持ちもなくなっていったわぁ……シュミラルが想いを打ち明けてくれたことで、わたしも考えなおすことができたの……シュミラルの嫁となって、森辺を出ていくことを想像して……それは無理だって、ようやく思うことができたのよぉ……わたしには、故郷や家族を捨てることはできないってねぇ……だから、わたしは……最初にアスタと出会って、その次にシュミラルと出会ったことで、ようやく森辺の民として正しく生きていくことができるようになったの……」
ヴィナ・ルウ=リリンがまぶたを開き、かたわらの伴侶に微笑みかけた。
シュミラル=リリンは、ヴィナ・ルウ=リリンと同じぐらい優しげな微笑を返している。
「わたしはそうやって、アスタやシュミラルに助けられてきた……だけどあなたは、誰にすがることもなく、そうやって正しく生きる道を見出したでしょう……? ただのかまど番ではなく、宿場町や城下町の人間にも美味しいと思ってもらえるような料理を作りたいって……そんなの、森辺の女衆としては、決して普通の話じゃないのに、あなたは迷わずにその道を進んでいる……それがものすごく、まぶしく感じられるのよぉ……」
「そんなこと……ないよ。わたしだって、たくさんの人たちに支えられているんだから」
そう言って、レイナ=ルウは微笑んだ。
それはとてもレイナ=ルウらしい、朗らかで、屈託がなくて、そして力にあふれた笑顔であった。
「わたしだって、さんざん悩んで、あちこちぶつかって、それでようやく正しい道を見つけることができたんだよ? わたしがそんなに強い人間じゃないってことは、ヴィナ姉も知ってるでしょう?」
「いいえ、あなたは強いわよぉ……少なくとも、自分で思っているよりはねぇ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは、慈愛にあふれた眼差しでレイナ=ルウを見つめていた。
「実は、あなたのことも、そんなに心配はしていないの……あなたはとても強いから、安心してルウの家をまかせることができるわぁ……これからも、家族や血族を正しい道に導いてあげてねぇ……?」
「うん。わたしにできるのは、かまど仕事ぐらいだけど……これからも、頑張ろうと思ってるよ」
レイナ=ルウは、力強くうなずいた。
ヴィナ・ルウ=リリンもそちらにうなずき返してから、ララ=ルウを振り返る。
「お待たせ、ララ……本当は、最初に声をかけてあげたかったんだけど……」
ララ=ルウは、ぷるぷると首を横に振っていた。それにあわせて、透明のしずくが地面に落ちる。ララ=ルウは最初から、ずっと声を殺して泣いてしまっていたのである。
「わたしのために、そんなに泣いてくれて、どうもありがとう……さあ、いらっしゃい……?」
ヴィナ・ルウ=リリンがゆったりと腕を開くと、ララ=ルウはその胸もとに飛び込んだ。
「ごめん……せっかくの宴衣装が、汚れちゃう……」
「いいのよ、そんなこと……あなたはダルムと一緒で優しすぎるから、とても心配だわぁ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは、妹の身体をやわらかく抱きすくめた。
その肩に顔をうずめながら、ララ=ルウは子供のようにしゃくりあげている。
「あなたはとても勇敢なのに、根っこの部分がとてもやわらかくできているのよねぇ……そういうところも、ダルムにそっくり……これからも、レイナやミーア・レイ母さんたちの言うことをよく聞くのよぉ……?」
「やめてよ……子供みたいじゃん……」
「だって、子供みたいに泣いてるじゃない……?」
ヴィナ・ルウ=リリンはとても愛おしげに、ララ=ルウの赤い髪を撫でた。
「あなたみたいに優しい人間を妹に持つことができて、わたしはとても幸福だったわぁ……たとえ住む場所が変わっても、あなたは一生、自慢の妹よぉ……5日にいっぺんは屋台の仕事を手伝うし、そのときはルウの家に顔を見せるから……そんなにさびしがらないで、ララ……」
「そんなの、無理だよ……さびしいに決まってるじゃん!」
「ええ、わたしだって、さびしいわよぉ……シュミラルと婚儀をあげることができたのは嬉しいけれど、ルウの家を離れるのは、さびしい……そんなの、当たり前のことよねぇ……」
ララ=ルウの身体を抱きしめたまま、ヴィナ・ルウ=リリンはリミ=ルウの姿を見やった。
リミ=ルウはにこにこと笑いながら、ふたりの姉たちの姿を見つめている。
「リミ、あなたはレイナとも違う強さを持っているわぁ……あなたはこんなに幼いのに、それほど大きな心配はしていないの……」
「うん! リミは大丈夫だよ! すっごくすっごくさびしいけど、泣いたりしないから!」
「ううん、だけど、ひとつだけ心配なところがあるわぁ……あなたはすごく強くて、すごく優しくて、すごく賢いけれど……普通、そんなに幼いうちから、なんでもできてしまうはずがないのよぉ……」
リミ=ルウは赤茶けた髪を揺らして、小首を傾げた。
ヴィナ・ルウ=リリンはララ=ルウの肩ごしに、優しく微笑んでいる。
「あなたもアスタと出会ってから、すごく変わったのだと思うわぁ……もともと強くて、優しくて、賢い人間だったのは確かだけれど……それが、ものすごい勢いで成長しているのを感じるの……それはとうてい、9歳とは思えないほどであるのよねぇ……」
「うん……それって、いけないことなの?」
リミ=ルウが、わずかに不安そうな顔をした。
ヴィナ・ルウ=リリンは優しく微笑んだまま、首を横に振っている。
「何もいけないことはないわ……きっとジバ婆も、幼い頃はリミみたいな子供だったのじゃないかしら……でもねぇ……あなたはそんなに小さいから、あまりに強くて優しくて賢すぎると……その小さな身体が弾け飛んでしまうんじゃないかって、少し心配になってしまうのよぉ……」
ララ=ルウをその腕に抱いたまま、ヴィナ・ルウ=リリンが膝を折った。
そして、片方の腕をリミ=ルウのほうに差しのべる。
「ねぇ……リミも、こっちに来てくれる……?」
リミ=ルウは、おずおずと歩を進めた。
その小さな身体に腕を回して、ヴィナ・ルウ=リリンがふわりと抱きとめる。
「リミは、そのままでいい……リミはこれからも色々なものを見て、とても立派な女衆に成長するでしょう……あなたが自分の妹であることを、わたしは心から誇らしく思っているわぁ……」
「うん……ありがとう……」
「でもねぇ……あなたは、まだ9歳なの……わたしを困らせないように涙をこらえるなんて、そんなことをしなくていいのよぉ……あなたはとても正しい人間なんだから、自分の感情を抑える必要なんてないの……あなたは怒りたいときに怒って、泣きたいときには泣くべきなのよぉ、リミ……」
リミ=ルウの背中が、ぷるぷると震え始めた。
その手がヴィナ・ルウ=リリンの身体を抱きすくめるや、「あーん!」と大きな泣き声が響く。
それにつられて、ララ=ルウもいっそう激しく泣きじゃくってしまう。
そんな妹たちの身体を抱きしめながら、ヴィナ・ルウ=リリンも静かに涙を流していた。
「レイナ……ララとリミを、これからもよろしくねぇ……これからは、あなたが姉妹で一番の年長になるんだから……」
「うん。わたしたちのことは、心配いらないよ」
そんな風に答えながら、レイナ=ルウもそっと自分の目もとをぬぐった。
ヴィナ・ルウ=リリンは、ララ=ルウとリミ=ルウの髪に、そっと頬をおしあてる。
「ルウの家を出るのは、とてもさびしいわぁ……またいつか、同じ寝所で寝ましょうねぇ……?」
「うん、絶対だよ? シュミラル=リリンがジェノスを出た後でいいから……絶対、来てね?」
泣きながら、ララ=ルウが答えている。リミ=ルウのほうは返事をすることもできず、ただ赤ん坊のように泣き続けていた。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか――ふたりの涙が止まるのを待って、ついにリリン家の荷車も出立することになった。
ララ=ルウはレイナ=ルウに、リミ=ルウはアイ=ファに取りすがって、その姿を見守っている。荷台に乗り込んだヴィナ・ルウ=リリンとシュミラル=リリンは、最後まで幸福そうに微笑みながら、手を振っていた。
「アスタ、アイ=ファ、本日、ありがとうございました」
いまにも動きだそうかという荷車の後部から、シュミラル=リリンが俺たちに呼びかけてくる。
俺は涙をこらえながら、「はい!」と応じてみせた。
「こちらこそ、ありがとうございました。これからも、変わらぬおつきあいをお願いいたします」
「変わらぬおつきあい」と、シュミラル=リリンが繰り返した。
「私、いささか、異論、あります」
「え? 異論ですか?」
「はい。私、これまで以上、おつきあい、望んでいます」
そう言って、シュミラル=リリンはふわりと微笑んだ。
「アスタ、遠慮、感じられます。私、ルウの血族、絆、深めるべき、思って、アスタ、遠慮していた。違いますか?」
「え、ええ、まあ、そういう気持ちがなかったわけではありませんが……」
「私、森辺の家人、なってから、アスタ、会った、数えるほどです。私、不満、思っています」
シュミラル=リリンの黒い瞳は、明るく輝いている。
おそらくシュミラル=リリンは、冗談めかして本音を語らっているのだ。
「私、遠からぬ内、森辺、離れるでしょう。それまで、もっと、アスタ、絆、深めたい、思います」
「だ、だけど、いまはヴィナ・ルウ=リリンと絆を深めるべき時期でしょう?」
「もちろんです。ヴィナ・ルウ、さびしい思い、絶対、させません。その上で、アスタ、絆、深めたい、思います」
荷車が、ゴトリと動き出した。
その中で、ヴィナ・ルウ=リリンがシュミラル=リリンの腕を抱きすくめながら、俺に微笑を向けてくる。
「だったら、わたしもご一緒すれば済む話でしょう……? ルウの家ばかりじゃなく、ファの家にも遊びにいかせていただくわぁ……」
そうしてヴィナ・ルウ=リリンは、家族たちにも微笑をふりまいた。
その頬には、新たな涙が流れている。
「みんな、元気で……いままでありがとう……ルウの本家に生まれたことを、わたしは心から幸福に思っているわぁ……」
荷車が加速して、ヴィナ・ルウ=リリンの姿も声も遠ざかっていく。
それが夜の闇に完全に覆い尽くされるまで、俺たちもずっと手を振っていた。
気づけば、リミ=ルウがまたぽろぽろと涙をこぼしている。
アイ=ファはとてもやわらかく微笑みながら、その髪を撫でていた。
「私では、とうてい姉の代わりはつとまるまいが……この夜をリミ=ルウのかたわらで過ごせることを、とても嬉しく思っている」
「うん……ジバ婆とターラと4人で、いっぱいおしゃべりしようね?」
「うむ。ヴィナ・ルウ=リリンの話を聞かせてくれ」
リミ=ルウは涙をぬぐおうともしないまま、「うん!」と元気にうなずいた。
そのかたわらで、俺は天空を仰ぎ見る。
俺の知らない星々が、俺の知らない星図を描いていた。
この中に、シュミラル=リリンやヴィナ・ルウ=リリンの星もあるのだろう。
それがどのような星図を描き、どのような運命を映しているのか、俺たちに知るすべはない。
しかし、それが希望と喜びに満ちあふれた運命であることを疑う理由なんて、どこにも存在するはずがなかった。
(シュミラル=リリン、ヴィナ・ルウ=リリン……どうか末永く、お幸せに)
俺はそのように、祈りを捧げた。
そうして記念すべき藍の月の14日は、ついに終わりを迎えることになったのだった。