ポルアースは、ダレイム伯爵家の第二子息としてこの世に生を受けた。
このジェノスにおいて、伯爵家というのは三家しか存在しない。宿場町を統治するサトゥラス、北方の荘園を管理するトゥラン、そして南方の農園を管理するダレイムである。
ポルアースが生まれ落ちたのは、そのダレイム伯爵家の本家筋であるのだから、まごうことなき名家であろう。
しかしポルアースは、自分がそれほど大層な存在であると感じることはできずにいた。ダレイム伯爵家が名家であったとしても、第二子息たるポルアースにその恩恵はほとんどもたらされなかったのである。
そもそもは、貴族の数が多すぎるのだ。ジェノスというのは辺境の果てに存在する中程度の領地であるのに、そこには数多くの貴族が存在した。ジェノス侯爵家に三大伯爵家、子爵家、男爵家、騎士階級の貴族たち――いったいどれだけの人数であるのか、勘定する気にもなれぬほどである。
だいたいが、余所の領地ではダレイムていどの規模で伯爵家の爵位を冠することはないのだと聞く。それに、確たる領地もないままに子爵家や男爵家がこれだけ増えるというのも、ジェノスならではの風習であるという話であった。
ジェノスがそういう風変わりな領地となってしまったのは、何代前かの国王の意向である。
ジェノスが存在するのは辺境中の辺境であるが、友好国たるシムやジャガルに近く、敵対国たるマヒュドラからは遠いという地の理を活かして、大いに発展することがかなった。ポルアースが生まれた時代には、王都アルグラッドに次ぐ豊かさなのではないかと囁かれるほどであったのだ。
何代か前の国王は、そういう行く末を予見していたのだろう。
そして、王都から遠く離れたジェノスが力を蓄えて、ゼラド大公国のように叛旗をひるがえすことを危ぶんだのだ。
その結果として、ジェノスの領土は分割された。
ジェノス侯爵家の領土は城壁に囲まれた城下町のみとされ、その基盤を支える農園や宿場町は三大伯爵家に預けられることになった――いや、領土を分割するために、ジェノス伯爵家に侯爵家の爵位が与えられ、新たな三大伯爵家というものが誕生することに相成ったのである。
それがおよそ、100年ていど前の出来事であろうか。
それからの100年で、ジェノスには貴族が増殖した。侯爵家と伯爵家には傍流が増え続け、何か功績をあげたものには、男爵や子爵の爵位が与えられる。ジェノスにおける男爵家や子爵家などというものは、単に貴族の居住区域に屋敷を保持することが許されるだけのことであったのだが、それでも貴族であることに変わりはなかった。
(まあ、伯爵家の第二子息なんかと比べれば、男爵家や子爵家の当主のほうが、まだしもありがたみはあるのだろうけれどな)
ポルアースは、そのように考えていた。
第二子息などというものは、第一子息が奇禍にでも見舞われない限り、脚光を浴びることもない。その事実を、ポルアースは身をもって思い知らされていたのだった。
ポルアースが為すべきは、父や兄の仕事や社交を補佐するのみである。これといった官職を授かることもなく、たゆたうように日々を生きている。額に汗して働いている平民たちと比べれば、なんとも優雅な生活であるのだろうが、ポルアースはそれを幸福と感じたことはなかった。不幸とまでは感じることもなかったものの、どうにも身の置きどころが見いだせずにいたのだった。
(僕はこのまま何を為すこともなく、安穏と生涯を終えるのかな。それを不幸だなどと言いたてるのは、あまりに傲慢なのだろうけれども……いささか退屈であることに変わりはないよなあ)
硝子の酒杯に注がれた果実酒をちびちびとなめながら、ポルアースはそんな風に考えた。
現在は、タルフォーン子爵家にて開かれている祝宴のさなかである。なんでも、子爵家の当主が管理する学問所の学師が勲章を授かったとかいう話で、このような祝宴が開かれることになったのだ。
まあ、おおよその貴族にとっては、関わりの薄い話であろう。そもそもタルフォーン子爵家とて格式の高い家柄ではないし、招かれている客人たちも同様であった。ポルアース自身、父や兄からこの役割を押しつけられて、しぶしぶ参席しているだけのことであるのだ。
それでもポルアースは伯爵家の本家筋という家柄であるので、こういう場ではずいぶんともてはやされることになる。
が、そういったもてなしこそが、ポルアースをいっそう虚しい心地にさせるのだ。
どれだけ祝宴でもてはやされようとも、ポルアースに伯爵家を動かす力はない。群がってくる人々は、みんなポルアースの背後に控える父や兄の存在を見据えているのだから、それで虚しくならないわけがなかった。
「ポルアース殿、このような片隅に引っ込んでしまわれて、いったいどうなさったのですか?」
と、張りのある女性の声がそのように呼びかけてきた。
振り返ると、ふくよかな肢体に華美すぎない宴衣装を纏った壮年の貴婦人が近づいてくる。彼女はポルアースの大叔母たる、アルフォン子爵家のマティーラであった。
「これはこれは、おひさしぶりですね、マティーラ。このたびは、どうもおめでとうございます」
彼女は貴族の身でありながら、くだんの学問所の副所長をつとめる才媛であった。厳格にして実直なる気性をした、いささか扱いにくい貴婦人である。
「ええ、どうもありがとう。……それで、あなたはこのような場所で、いったい何をされているのかしら?」
「ご覧の通り、僕は果実酒を楽しんでいるさなかです。今宵は、盛況でありますね」
「それならば、もっと広間の中央で楽しむべきではないかしら? あなたはお父上の名代としてこの祝宴に参席されているのですから、そのお立場に相応な振る舞いを心がけるべきでしょう」
斯様にして、厳格なる貴婦人なのである。
ポルアースとしては、曖昧に笑って誤魔化すしかすべはなかった。
「ええ。少し休んだら、あちらに戻ろうかと思います。ちょっとひさびさの祝宴であったので、いささか気疲れしてしまったのですよ」
「そうですか。あなたもトトスなどに乗られて心身を鍛えるべきなのかもしれませんわね。ジェノス侯爵家やサトゥラス伯爵家の方々はそうしてたゆみない鍛錬のもとに、ああいうすらりとしたお姿を保たれているのでしょう」
そうして遠慮のない言葉を並べたてたのち、マティーラはきびすを返した。
「それでは、失礼いたしますわ。……ニコラ、いらっしゃい」
ポルアースは気づいていなかったが、貴婦人の大柄な身体の陰には、ほっそりとした幼き貴婦人も控えていたのだ。いかにもこまっしゃくれた面持ちをしたその幼き貴婦人はポルアースに一礼してから、マティーラの後を追いかけていった。
(あんな10歳かそこらの娘さんを、祝宴に引っ張り出してきたのか。将来の婿でも見つくろおうという考えなのかな)
何にせよ、ダレイム伯爵家の傍流の血筋であったマティーラは、その才覚でもって自分の道を突き進んでいる様子であった。
彼女の嫁いだアルフォン子爵家もだいぶん衰退気味であるという風聞を耳にしていたが、マティーラであればそれを再興することもできるのかもしれない。
また、たとえお家の再興がかなわなかったとしても、彼女は学問所の副所長という立場である。ポルアースに比べれば、さぞかし充実した日々を過ごしているのだろう。
(うん、今日はどうも暗い方向に気持ちが向かってしまうようだな。少し外の空気でも吸ってくるか)
まだ半分ほど果実酒の残っている酒杯を手に、ポルアースは庭園に向かうことにした。
元来、ポルアースは陰気な気性ではない。むしろ周囲からは、明朗だとか能天気だとか思われていることだろう。それを否定する気持ちはないし、なるべく明るい心持ちで日々を過ごしたいと願っている。実りの少ない人生を嘆いたところで事態が好転するわけではないのだから、それならば前向きに生きていきたいところであった。
(ただ、僕にとっての『前』っていうのは、いったいどちらの方向なんだろうな)
庭園の入り口に立っていた守衛にひょいっと酒杯を掲げつつ、ポルアースは夜の庭園に足を踏み出した。
もちろん庭園にも明かりは灯されているので、目の頼りに不自由はない。それでも広場の人々や守衛の視線から逃れたかったので、ポルアースは庭園の奥深くにまで歩を進めることにした。
明かりが遠のき、どんどん薄暗くなっていくが、そのぶん空気は清涼になったように感じられる。
庭園の片隅に休憩用の卓と椅子を見つけたポルアースは、そこに飲みかけの酒杯を置いてから、「うーん!」と大きくのびをした。
とたんに、暗がりの向こうから「きゃ」という可愛らしい悲鳴が聞こえてくる。
「あ、あれ? どなたか、そちらにいらっしゃるのですか?」
ポルアースが驚いて呼びかけると、小さな人影がおずおずと進み出てきた。
宴衣装に身を包んだ、まだごく若い貴婦人である。声から連想される通りの愛くるしい容姿をしていたが、その顔にはとても気恥ずかしそうな表情が浮かべられていた。
「申し訳ありません。決して庭園を踏み荒らすつもりではなかったのですが……」
「あ、いや、僕も客人の身ですので、お詫びには及びません」
「え? それでは、あなたは……このような場所で、何をされているのですか?」
「僕はちょっと休憩がてら、庭園を歩いていただけのことです」
「それなら、わたくしも一緒です」と、若き貴婦人はにこりと微笑んだ。
笑うと、ますます愛くるしい顔になる。ポルアースも、自然に笑顔を返すことができた。
年齢は、21歳のポルアースよりもずいぶんと若そうだ。ポルアースよりも頭ひとつぶんぐらいは小柄であり、とてもほっそりとした身体つきをしている。その宴衣装からして貴族であることに疑いはないが、ポルアースには見覚えのない相手であった。
「でも、どうしてそのような暗がりにまで引っ込んでいたのです? 何か落としてしまわれたのでしょうか?」
ポルアースが尋ねると、年若き貴婦人は「いえ」と首を横に振った。
「わたくしはただ、青虫を追いかけていただけなのです」
「青虫を……なんですって?」
「はい。こちらの席に座ろうと思ったら、そこの地面に大きな青虫が這っていたのですね。その動きが可愛らしかったもので、ついつい後を追いかけてしまったのです」
さしものポルアースも、言葉を失うことになった。
年若き貴婦人は、またいくぶん気恥ずかしそうに頬を染める。
「申し訳ありません。子供の頃から、虫が好きなもので……家人からも、もっと貴婦人らしく振る舞いなさいとたしなめられているのですが……」
「いやあ……蝶などの美しい虫を愛でる趣味というのは耳にした覚えがありますけれども、青虫を愛でるというのは寡聞にして存じませんでした」
「でも、可愛くないですか? ころころとした姿が、まるで幼子のようで」
羞恥に頬を赤らめつつ、彼女はとても無邪気な微笑みをたたえていた。
それでまた、ポルアースも笑顔を誘発される。
「僕に青虫の可愛らしさは理解しにくいようです。ただ、肉づきのいい青虫は美味しそうだと感じるかもしれません」
「まあ! あんな可愛らしい青虫を食べてしまわれるのですか?」
「食べませんよ。さすがにカロンやキミュスより美味ということはないでしょうからね」
年若き貴婦人は胸もとに手をやりながら、「それならよかったです」と息をついた。
その仕草があまりに愉快であったので、ポルアースはまた笑ってしまう。
「どうも軽口が過ぎました。僕はダレイム伯爵家の第二子息で、ポルアースと申します」
「あ、名前も名乗らずに失礼いたしました。わたくしはサトゥラス伯爵家の末席に名を連ねる、メリムと申します」
その言葉からして、傍流の血筋であるのだろう。そもそも気位の高いサトゥラス伯爵家が、このていどの祝宴に本家筋の人間を参席させるとは思えなかった。
しかし彼女は、気位とは無縁なようである。何せ祝宴のさなかに、青虫を追いかけてしまうような人柄であるのだ。
(サトゥラス伯爵家にも、こんな愉快な娘さんがいたのだなあ)
ポルアースは、なんとも楽しい心持ちになっていた。
メリムと名乗った年若き貴婦人は、そんなポルアースを見やりながら、いつまでもにこにこと微笑んでいた。
◇
それからポルアースは、サトゥラス伯爵家のメリムとゆっくり絆を育んでいくことになった。
彼女はやはり、傍流の血筋であった。現在の当主であるルイドロスの、祖父の弟の血筋である。三代も前に本家筋から離れたのなら、それはもう名もなき貴族と呼ばれるべき格式であった。
とはいえ、ポルアースにとっては格式などどうでもいい。ポルアースとて、しょせんは第二子息であるのだ。もしもポルアースに曾孫でも生まれれば、メリムと同じ格式となるのである。それを蔑むのは自分自身を蔑むのと同列の行いであるはずだった。
(人間の価値を決めるのは格式なんかじゃないっていう、いい見本だな)
メリムは、とても好ましい人間であった。
その容姿が愛くるしいことは言うに及ばず、内面のほうはそれ以上に愛くるしく、そして愉快であったのだ。
何せ、青虫を可愛らしいなどと言いたてる娘さんなのである。ポルアースのささやかな人間関係の中で、そのように愉快なことをのたまう貴婦人は他に存在しなかった。
メリムは16歳であり、上にはふたりの姉とひとりの兄がいるのだと聞く。それで、姉たちはとっくに嫁いでおり、兄は立派な官職についたという話であるから、最後に残された部屋住みの家人として、無聊をかこつている様子であった。
「言ってみれば、メリムは僕と同じような立場なのかもしれませんね。僕も忙しそうにしている父や兄の背中を眺めながら、安穏とした日々を送っているのです」
「でも、ポルアースは本家筋ですし、それに何といっても殿方なのですから、父君や兄君のお仕事を手伝っておられるのでしょう? わたくしなどとは比較にならないかと思います」
「いやいや、実際のところ、僕に任される仕事など微々たるものなのですよ。こうして父の名代として小さな祝宴に参席することが、一番の仕事であるぐらいかもしれません」
とある祝宴でポルアースがそのように言ってみせると、メリムはにこやかに微笑んでくれたものであった。
「では、ポルアースにそういった仕事が任されることを、わたくしは心から祝福させていただきたく思います。そのおかげで、わたくしはこのように楽しい時間を過ごすことができているのですからね」
そう、おたがいに貴族であるポルアースとメリムが顔をあわせるのは、たいていこういった祝宴の場であった。
なおかつそれは、いずれも規模の小さな祝宴である。規模の大きな祝宴などに、ポルアースやメリムが参席する機会はそうそうないのだ。その事実が、ポルアースをまた愉快な心地にさせていた。
(つまり、僕が伯爵家の第一子息であったなら、このメリムと巡りあう機会も訪れなかったということだ。第二子息でよかったなんて思えたのは、これが生まれて初めてのことなんじゃなかろうか)
ポルアースがそんな感慨を抱いていると知ったら、父や兄は失笑を禁じ得ないことだろう。しかし、ポルアースにとっては、それが偽らざる本心であった。
もちろんポルアースとて、現在の境遇に満足しているわけではない。だが、いまのポルアースにとって、メリムの存在はまたとない安らぎであったのだ。心中に巣食った薄ぼんやりとした鬱屈を、綺麗に洗い流してくれる、メリムとはそういう存在であったのだった。
ポルアースが祝宴への参席を命じられるのは、せいぜい月に1度か2度ぐらいのものである。
その希少な機会でもって、ポルアースはゆっくりと絆を育んでいった。いざ祝宴に出向いてみて、メリムが参席していないと知ったときなどは、それはもう失意の底に突き落とされたものである。
メリムと言葉を交わすのは、本当に楽しいことだった。
何も実のある会話をしているわけではない。他者が聞いたら呆れるぐらいの、たわいもないおしゃべりばかりである。貴族に相応しい内容ではないし、妙齢の男女に相応しい内容でもなかっただろう。それがまた、ポルアースの心をとても和ませてくれたのだった。
「キミュスの顔って、愛くるしいですよね。あの平べったいくちばしなんかは、いつでも笑っているように見えます」
「キミュスのくちばしかあ。そういえば、頭の羽は良質の食材として知られているのに、くちばしを食材に使うという話は聞いたことがないですね」
「まあ。ポルアースは、なんでも食べ物の話にしてしまうのですね」
「だけどキミュスは、食べるために育てている鳥でしょう? それを愛でていたら、食べるのが可哀想になってしまうじゃないですか」
「そうでしょうか? わたくしは、キミュスの足肉が好物ですけれど」
万事、そんな調子である。
いったい何が楽しいのかと問われてしまうと、ポルアースとしても返す言葉がない。ただ、メリムと言葉を交わしていると、童心に返ることができるのだった。
幼き頃は、自分の境遇に不満を抱くこともなかった。両親はわけへだてなく愛情を注いでくれたし、むしろ兄よりものびのびと育てられたぐらいかもしれない。そういえば、兄は父と接している時間が長く、自分は母と接している時間が長かったように思う。それはきっと、兄が大事な跡取りであったためなのであろうが、ポルアースは厳格なる父よりものんびりとした母のほうが心安く思えていたので、むしろ嬉しいぐらいであったのだった。
「ポルアース様は、メリム様に花を贈ったりはしないのでしょうか?」
ある日、侍女見習いのシェイラにそんな言葉をかけられることになった。
シェイラは13歳の少女であり、この年からポルアースのお付きに任命されていた。ポルアースは格式張ったことを苦手にしていたので、父や兄の目のないところでは忌憚なく振る舞うように命じていたのであるが、さっそくそれを実践してきた様子である。
「花って、あの花かい? どうして僕が、メリムに花を贈らないといけないのさ?」
その日も祝宴であったので、ポルアースはシェイラに衣装を選ばれているさなかであった。衣装棚から青い肩掛けを引っ張り出しつつ、シェイラはにこりと無邪気に微笑む。
「だって、メリム様とご縁を結ばれてから、もうずいぶん経つでしょう? そろそろ頃合いなのではないでしょうか?」
「頃合いの意味がわからないね。僕とメリムは、そういう仲ではないのだよ」
「では、どういう仲なのでしょう?」
とうてい侍女見習いが主人に対する言葉ではない。が、そうするように命じたのはポルアース自身であったので、如何ともし難かった。
「そうだなあ……言ってみれば、兄妹のようなものなのかな? 僕には兄しかいないのでよくわからないけれども、妹がいたらこんな感覚なのかもしれないね」
「兄妹ですか。それはそれで素敵なお話だと思いますけれど……わたくしにも兄はいないので、ポルアース様のお気持ちを理解することがいささか難しいようです」
そんな風に語るシェイラは、ちょっと残念そうな面持ちであった。
まあ、こういう年頃の娘は、色恋の話に浮かれるものであるのだろう。ポルアースとしては、苦笑を浮かべるしかなかった。
(僕が花などを贈ったりしたら、メリムは仰天してしまうだろう。それで彼女との和やかな関係が壊れてしまったら、元も子もないじゃないか)
ポルアースは、お世辞にも美男といえるような容姿ではなかった。父親に似て骨が太く、母親に似て肉付きがいい。それでいて、顔立ちはのっぺりしているものだから、なんとも締まりのない様相なのである。父や兄などは顔立ちが厳つくて、ジャガルあたりであれば好男子と認められそうな風格であったが、ポルアースがそういった要素を受け継ぐことはかなわなかった。
(まあ、男に求められるのは外見の美醜ではなく、内面の度量なのかもしれないけれど……それだって、この有り様じゃなあ)
メリムはあれほど素晴らしい女性であるのだから、然るべき伴侶を娶るべきであろう。たとえ格式でまさっていても、自分がそれに相応しいなどとはとうてい思えなかった。
(いいんだよ。いまのままで、僕は十分に満足さ)
そんな思いを胸に、ポルアースはその日の祝宴の場に向かうことになった。
本日も、とある男爵家の主催するささやかな舞踏会である。
広間に足を踏み入れると、すぐにメリムの存在を発見することができた。
胸の中で西方神に感謝の言葉を捧げつつ、まずは居並んだ人々と挨拶を交わす。本日も侯爵家や伯爵家からは傍流の人間ぐらいしか参席しておらず、ポルアースがもっとも格式の高い客人であるようだった。
ひと通りの挨拶を終えて、差し出された料理を申し訳ていどにつまんでから、なるべくいそいそと見えないような足取りで、メリムのもとに向かう。
楽士たちの奏でる心地好い演奏の中、壁際にたたずんでいたメリムは、ぼんやりと窓の外を眺めている様子であった。
「おひさしぶりです、メリム。本日も顔をあわせることがかないましたね」
ポルアースが浮きたった気持ちで呼びかけると、メリムが静かに振り返った。
いつも朗らかなその顔が、いくぶん打ち沈んでいるように見える。メリムと出会ってからもう半年以上の日が流れていたが、このような表情を見るのは初めてのことであった。
「どうしたのです、メリム? どこかお加減でも悪いのでしょうか?」
「ああ、ポルアース……いえ、なんでもありません。そちらはお元気なご様子で、何よりです」
メリムは同じ表情のまま、宴衣装の裾をつまんで挨拶をした。
その姿に、ポルアースはいっそうの胸騒ぎを覚えてしまう。
「本当にどうされたのですか? ご気分でも悪いのでしたら、どこかで休むべきでしょう」
「いえ、身体はなんともないのです。ただ……ちょっと色々と、悩ましいことが起きてしまって……」
「悩ましいこと? 僕でよければ、なんでも相談に乗りますよ! ……もちろん僕なんかでは、なんのお役にも立てないかもしれませんが……」
メリムは「ありがとうございます」と、はかなげに微笑んだ。
やはり、彼女らしからぬ表情である。
「でも、どうかお気になさらないでください。こればかりは、誰にどうすることもできないお話なのでしょうから……」
「でも、誰かに話すだけで楽になる、ということもあるのではないでしょうか? メリムにそのようなお顔をされてしまうと……僕は、どうしていいかもわからなくなってしまいます」
ポルアースが必死に言いつのると、メリムはそっと目を伏せてしまった。
「ポルアースにご心配をおかけしてしまい、申し訳ありません。では……どうか笑わずに聞いていただけますか?」
「はい! なんでもご遠慮なく仰ってください!」
「実は……母から縁談を持ちかけられてしまったのです」
ポルアースは、ぐらりと世界が傾くのを感じた。
「え、縁談ですか……失礼ですが、どこのどなたと……?」
「マーデル子爵家の、ご当主の弟君ですね。お名前は……失念してしまいました」
その返答に、ポルアースはますます打ちのめされてしまった。
「マーデル子爵家の、ご当主の弟君? 僕もその御方とは面識がないように思いますが……でも、ご当主はずいぶんご高齢であられたはずですよね?」
「はい。わたくしの父と同じ齢であったかと思います」
「では、その弟君となると、そちらもずいぶんなご高齢なのでは?」
返答は、「はい」であった。
「そちらは、わたくしの母と同じ齢であると聞いています。ですから、44歳となりますね」
メリムは4人兄妹の末子であるのだから、それは自然な年齢であろう。
が、母親であるから自然であるのだ。メリムが婚儀をあげる相手に自然な年齢であるとは思えなかった。
「ど、どうしてメリムが、ご自分の母君と同じ齢の御方と婚儀をあげねばならないのです? 何か……のっぴきならない事情でも存在するのでしょうか?」
貴族にとっての結婚とは、ただ情愛の果てに生じるものではない。それぐらいのことは、ポルアースもわきまえている。
しかし、メリムの返答は「いえ」であった。
「おそらくは、あちらもまだわたくしの名や顔も知らないかと思われます。ただ、母がひとりで逸っているばかりですので……」
「ど、どういうことでしょう? その御方から婚儀を申し込まれたわけではないのでしょうか?」
「はい。わたくしがなかなか殿方とご縁を結ぼうとしないので、母は業を煮やしてしまったのでしょうね。それで、その御方に縁談を持ちかけようと思い至ったようです」
「そ、それで選ばれたのが、どうしてその御方なのです? メリムであれば、もっと相応しい貴公子が存在するでしょう?」
「とんでもありません。わたくしみたいに貴婦人らしからぬ小娘には、縁談の相手を見つけることもなかなかかなわないのでしょう」
そう言って、メリムは切なげに吐息をついた。
「その御方はずいぶんと大らかな気性であられるようですし、これだけ齢が離れていれば、わたくしのような小娘にも愛想を尽かすことはないだろう、と……母はそのように考えているようです」
「だ、だけど、16歳のメリムが44歳の御方と婚儀をあげるというのは、あまりにも……そもそもその御方は、どうしてそのような齢で独り身なのですか?」
「何年か前に、伴侶を亡くされてしまったそうです。その間にもうけられたお子たちは、もう立派に成長されているのだと聞きます」
その子供たちだって、きっとメリムより年長であるのだろう。
ポルアースが言葉を失っていると、メリムはまた切なげに吐息をついた。
「わたくしのような変わり者の小娘を娶ってくださるのでしたら、感謝の言葉もありません。心から、その御方に尽くさせていただきたく思います」
「そう……なのですか……」
「はい。父をなくして気弱になってしまった母を、早く安心させてあげたいですし……兄や姉たちからも、早く婚儀をあげるようにとせっつかれていたのです。いつまでも独り身のままで伯爵家のお屋敷のご厄介になるのは、体裁が悪いのでしょうね」
そんな風に言いながら、メリムは宴衣装の裾をきゅっとつまんだ。
「ですから、婚儀の話はいいのです。ただ……どうしても、気持ちが重たくなってしまうことがあって……どうか笑わずに聞いていただけますか?」
ポルアースは気力を振り絞って、「もちろんです」と答えてみせた。
目を伏せていたメリムはちらりとポルアースを見やってから、はにかむように微笑する。
「婚儀をあげてしまったら、今後はこういった祝宴もその御方の伴侶として参席することになるでしょう? そうしたら……もうポルアースとも、これまでみたいにおしゃべりできなくなってしまうのだな……と、そんな風に思ってしまったのです」
「は……僕との、おしゃべり……?」
「はい。最近のわたくしにとっては、ポルアースと語らうこういう時間が、何よりもかけがえのないものであったのです。こんな愚にもつかないおしゃべりで、何を大仰なとお思いでしょうが……」
「い、いえ! 決してそのようなことはありません!」
ポルアースは困惑の極みに陥りながら、つい大きな声をあげてしまった。
ようやく面を上げたメリムは、自分を励ますように可愛らしく微笑む。
「こういう部分が子供じみていると、母を心配させてしまうのでしょうね。ようやく持ち上がった縁談の話よりも、ポルアースとの語らいの場が失われてしまうことに気持ちを捕らわれてしまうような、わたくしはそういう至らない人間であるのです。貴婦人としては、恥ずべきことであるのでしょう」
「いえ、決してそのようなことは……」
「婚儀をあげるには、きっといくらかの時間がかかることでしょう。それまでは、どうかこれまで通りにおしゃべりしていただけたら、心より嬉しく思います」
ポルアースは、腹の奥底から得体の知れない情念がせり上がってくるのを感じた。
その情念に衝き動かされるままに、「あの!」と大きな声をあげる。
「ぼ、ぼ、僕に妙案があるのですけれど、如何でしょうか?」
「はい。妙案ですか?」
「は、はい。もしもメリムが、僕との語らいの時間をそのように思ってくださっていたのでしたら……」
ポルアースは、膝が震えるのを感じていた。
伯爵家の人間として、おそらくポルアースはきわめて不相応な行いに及ぼうとしているのである。
しかし、そのような体裁を取りつくろう余裕も、いまのポルアースには存在しなかった。
「ぼ、ぼ、僕と婚儀をあげてみては如何でしょうか?」
メリムは、きょとんと目を丸くした。
激しい羞恥と恐怖にも似た感情に心臓を圧迫されながら、ポルアースはまくしたててみせる。
「ぼ、僕にとってもメリムとの語らいの場は、かけがえのないものでした。これが失われてしまうだなんて、僕にとっては苦痛以外の何ものでもありません。そ、それに、メリムが顔も名前も定かでない御仁と婚儀をあげてしまわれるなんて、ぼ、僕には我慢のならないことであるのです!」
「はあ……婚儀をあげる前には、顔も名前も知ることになるかとは思いますが……でも、わたくしとポルアースが婚儀をあげるだなんて、そんなのはありえないお話でしょう?」
「ど、どうしてありえないのですか? 僕が何の取り柄もない、名ばかりの貴族であるからでしょうか?」
「とんでもありません。ポルアースは伯爵家の本家筋ではありませんか。名ばかりの貴族であるのは、わたくしのほうであるはずです」
「だけど僕は、しがない第二子息です。僕がなんの力も持っていないということは、メリムだってご存知でしょう?」
「いえ。ポルアースがどれだけお優しくて、楽しくて、心の温かい御方であられるかを、わたくしは知っています」
形のいい眉を下げながら、メリムは困ったように微笑んでいた。
「なんの力も持っていないのは、わたくしのほうであるはずです。ポルアースの父君や兄君だって、大事なご家族がわたくしのような名ばかりの貴族と縁談をあげることは、きっとお許しにならないでしょう」
「父や兄は、関係ありません! 僕自身が、メリムとの婚儀を願っているのです!」
メリムはいよいよ困ったように微笑みながら、「どうしましょう」と自分の胸もとに手をやった。
「まさか、ポルアースにそのようなお言葉をかけられるなんて、わたくしは夢にも思っていませんでした……なんだか、心臓が口から飛び出してしまいそうです」
「そ、それは僕も同じことです!」
ポルアースは、震える指先をメリムに差し出してみせた。
「こ、婚儀の正式な申し入れは、のちほどジェノスのしきたりに従ってお伝えさせていただきます。もしもメリムが……メリムご自身がそれをお嫌と感じていないなら……1曲、踊っていただけませんか?」
メリムは何をためらう様子もなく、ポルアースの手を取ってくれた。
そして――そのなよやかなる指先が、それこそ青虫のようにころころとしたポルアースの指先に触れた瞬間、メリムは初めてその頬を赤く染めあげたのだった。