相対したまま、どちらも動かず、口を開かず。
その場に落ちた長い沈黙を打ち破ったのは、ヒルデの方だった。
――カツン。
彼女が一歩踏み出した音が、廊下に響く。
「止まれ」
即座にクラウスが告げる。
私を庇うように立つ彼は、冷えた瞳でヒルデを見据えた。
「これより先は、立ち入りを制限されている。去れ」
クラウスのものとは思えない、冷たく硬質な声が命ずる。
叱責されたヒルデは、まるで鞭打たれたかのようにビクリと跳ねた。蒼白な顔色の彼女は足を止め、まるで縋るように私を見る。
「……王女、殿下……」
絞り出したような声は、組んだ手と同様に震えていた。
ほぼ初対面の彼女に、縋られても、どうしたらいいのか分からない。動揺を隠せない私の視界を遮るように、クラウスは一歩踏み出した。
「去れと言っている。聞こえないか」
クラウスは、腰に佩いた剣の柄に指を掛ける。カチン、と微かに鳴った音が、やけに大きく聞こえた。
ヒルデと話したいと思ったけれど、今は不味い。彼女が何かを企んでいないとも限らないし、何より、これ以上近づけば、クラウスは彼女の事を切り捨ててしまいそうだ。
「……、」
「知らなかったんです……っ」
下がりなさい。そう命じようとした私が口を開くよりも一拍早く、ヒルデは叫ぶように言った。
「こんな……こんな事に、……私、違う、違うの……知らなかったの」
「……何を言っている」
ヒルデは混乱しているのか、支離滅裂な呟きを洩らす。気が触れたかのようなヒルデの様子に、クラウスは訝しげに眉をひそめているが、私には彼女の言葉の意味が何となく分かった気がした。
知らなかったのだと、彼女は言った。
こんな事になるなんて、知らなかったのだと。
呆然とした。
こんな大規模な犯罪に巻き込んでおきながら、あの男は彼女に計画の一端も知らせていなかったのか。本当の捨て駒だ。使い捨てるためだけの、生贄。
同情しそうになって私は、己を叱咤した。彼女が嘘を吐いている可能性が無い訳じゃない。追い詰められて、嘘を吐いているのかもしれないじゃないか。
そう自分に言い聞かせようとしても、心は揺れる。
「わた……し、……」
ふらふらと一歩踏み出すヒルデの足取りは、酷く危うい。
真っ青な顔に虚ろな目、いつもはキチンと整えている髪が乱れていても、気にもしない。幽鬼のような有様の彼女が、演技しているようには見えなかった。
もしこれら全てが、減刑を請う為の演技ならば彼女は、稀代の悪女になれるだろう。
「ローゼマリー様、お下がり下さい」
一歩ずつ近づいてくるヒルデに、クラウスはとうとう、剣を鞘から抜き放った。鈍い輝きを放つ諸刃を目にし、私は我に返る。
ぼんやりとしている場合じゃない。
「クラウスッ、あまり手荒な真似は……」
「承知しております」
慌てて制止する私に、クラウスは至極冷静な声で告げた。
切っ先をヒルデに突き付ける様を見ていると不安になるが、今は信用する他無い。数歩、後退した私に釣られるようにして、ヒルデも足を進めた。
待って。声無く、唇が言葉を刻む。
その悲壮な顔に息を呑んだ瞬間、荒々しい足音が響いた。
突然、廊下の突き当たりから男が姿を現す。近衛の鎧を纏った男は、ガチャガチャと鎧を鳴らせながら猛然と突き進んで来た。
途中で右側の腰に帯びた剣を抜き放ち、真っ直ぐにヒルデに向かい振り下ろす。
「避けて!!」
「っ!?……っぐ、ぁああ!!」
突然の出来事に棒立ちのままだったヒルデは、私の声に反応し、咄嗟に身を引く。
けれど避けきれずに剣は、ヒルデの右肩を切り裂いた。彼女はそのまま吹き飛ばされ、壁に体を打ち付けた。
強かに体を打ったヒルデは、ズルズルと力なくその場に崩れ落ちる。切り裂かれた肩から溢れ出した血が、じわりと服を赤く染めた。
「…………っあ、」
「ご無事ですか。王女殿下」
血を払うように剣を振った男は、私に向かい問う。
少女を切り付けたばかりだと言うのに、天気の話でもするようなトーンで話しかけるのは、ニクラス・フォン・ビューロー。遠目には、穏やかそうに見えた薄茶の瞳は、酷く凶暴で淀んだ色をしていた。
「申し訳ありません。私が目を離したばかりに、御身を危険に晒させてしまうなど」
「何を……っ」
ニクラスはそう言って神妙な顔付きをするが、それさえも貼り付けた仮面のようで気持ちが悪い。
虫でも払うような雑な動作で剣を薙ぐと、ヒルデのスカートの裾が破れ、何かが転がり出た。カ、カン、と硬質な音をたてて床を跳ねて転がったのは、刀身が15㎝程の短刀。
ガーターベルトで留められていたらしいナイフを拾い上げたニクラスは、それを私へとわざとらしく見せつけた。
「見ての通りこの女は、賊の一味にございます。とある筋から情報を得たものの、中々尻尾を出さず証拠集めに手こずっておりました」
……何を言っているんだ、コイツは。
まるで息をするように嘘をツラツラと並べ立てる男に、私は呆然とした。
平和な時代に生き、生まれ変わってからも尚、守られ温室の中で生きてきた私にとって彼は、初めて目にする明確な悪意の塊だった。
だってニクラスの目には、罪悪感どころか、怒りや哀しみも無い。それどころか、憐れみすら。
使えなくなった消耗品を捨てる時のような、何の感情も浮かばない無機質な瞳が、吐き気がこみ上げる程に、気持ち悪かった。
「っ、ぅ……」
意識を飛ばしていたのか、ぐったりと壁に凭れていたヒルデが、小さく呻き、身じろぐ。
それに私が反応するよりも早く、ニクラスは一歩踏み出した。ガチャンと重々しい音を鳴らしながら、彼は剣を再び構える。
「っ!止めなさい!!」
「ローゼマリー様」
思わず駆け寄ろうとした私を、クラウスが阻む。
今まで黙って事の成り行きを見守っていただけのように見えたクラウスは、即座に私の動きに反応した。おそらく彼は、私を守る事のみに集中していただけ。
そんな人間の隙を突くなど、どう足掻いても無理だ。
アッサリと抱き留められた私は、歯噛みする。
「王女殿下。この女は生きている限り、貴方様を害そうとします。今、処分しなくては」
「貴方にそんな権限があると思うのですか!?私は止めろと命じているのよ!!」
クラウスに止められながらも、私は吠えた。
だがニクラスは躊躇う素振りさえ見せない。三流の舞台俳優のように、大仰な仕草で頭を振る。
「御咎めは、後程お受け致します。ですがこの女を放って置く事は出来ません」
「……っ」
駄目だ。コイツ、私の制止など全く聞く気がない。この男はどうあっても此処で、ヒルデを始末するつもりだ。
鼓動が早すぎて、心臓が痛い。
ドクドクと体中を血液が駆け巡る。耳鳴りのような音がして、頭も痛い。苦しい、辛い。息って、どうやって吸うんだっけ?
ハクハクと陸に打ち上げられた魚のように喘いでも、酸素を上手く取り込めない。真っ白になった頭でぼんやりと見守る中、顔を上げたヒルデと目が合う。
涙に濡れた翠の瞳が、私を見上げる。戦慄く唇がゆっくりと、言葉を綴った。
「……!!」
――助けて、と。
「止めっ……!!」
手を伸ばす先、振り下ろされる剣。赤を纏った鋭い切っ先の動きが、スローモーションで網膜に焼付く。
泣いても叫んでも、私の手は届かない。
「止めてぇえええ!!」
ガツッ!!
「っ!!」
何かがぶつかる鈍い音がした。
弾き飛ばされたニクラスの剣は、円の軌道を描き床に突き刺さる。左手を押さえて低く呻くニクラスの傍らに、拳の半分程の大きさの石が転がっていた。
「……あ」
「王女殿下の御前だ。控えよ、ニクラス」
廊下の突き当たり。投擲(とうてき)の姿勢を解いた彼は、低い声で命ずる。
厳しい表情に、鋭い眼光を放つ黒曜石の瞳。怒気を纏う彼の姿にニクラスは息を呑んだけれど、私は逆に体の力を抜いた。
彼を、怖いとは思わない。思う筈が無い。誰も聞いてくれない中で、彼だけが私の叫びを聞いてくれた。
レオンハルト様だけが、私の願いを叶えてくれたのだから。
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