紫の月の7日。
俺たちは予定通りに屋台の商売は臨時休業とさせていただき、城下町へと向かうことになった。
メンバーは、俺とリミ=ルウとトゥール=ディン、護衛役はアイ=ファとシン=ルウの2名であった。
ここにシン=ルウが選出されたのには、ふたつの理由が存在する。
ひとつは、ダン=ルティムとディム=ルティムの両名が、ついに狩人として復帰を果たしたためである。
ディム=ルティムなどはダバッグからの旅から帰ると同時に復帰していたらしいが、ダン=ルティムは森の主の一件で血が騒いでしまい、無理のない範囲でという条件で強引に復帰してしまったらしい。
こうなると、ルウの眷族にも手空きの狩人はいなくなってしまう。
ドンダ=ルウとダルム=ルウは、逆に負傷が重すぎて、護衛の役目自体がままならない。ギバ狩りの仕事は不可能でも、痛みさえこらえれば町の人間ぐらいは蹴散らすことのできる、せめてアイ=ファやダン=ルティムぐらいが護衛役としてはぎりぎりのラインであったのだ。
だがまあもとより、ルウ家のほうでも1日ぐらいならば狩人の仕事を休ませてもよい、という判断をくだしていたので、それは大きな問題ではなかった。
それでは、何故あまたある狩人の中からシン=ルウが選出されたかというと、それは城下町からの要請に応えるためであった。
「今回は貴婦人の茶会であるため、護衛役を同行させるならば、なるべく見目のやわらかい若衆を選出してほしい」
城下町からの使者には、そのように告げられていたのである。
失礼といえば失礼な話だが、それでもまあドンダ=ルウやグラフ=ザザなどとも対面したことのある城下町の人々にとっては、そのように配慮せざるを得なかったのだろう。ギバの毛皮や頭骨をかぶった北の集落の狩人などを同行させたら、たおやかなる貴婦人たちは卒倒してしまうかもしれない。
とにかく、そういった事情で選出されたのがシン=ルウであった。
家長代理のジザ=ルウをサポートしなければならないルド=ルウや、レイの家長たるラウ=レイよりは、狩人の仕事を休ませても大きな支障にはならない、といった事情もあるのだろう。なおかつ見目のやわらかさではルド=ルウたちにも負けていないシン=ルウであるのだ。
「そのような理由で選ばれても嬉しくはないが、それでもアスタの力になれるのならば、俺は誇らしいと思う」
城門で乗り換えた箱型のトトス車の中で、シン=ルウはそんな風に言ってくれていた。
しかし、その表情は普段よりも少しだけ憂いげに見えなくもない。森の主の討伐で選ばれなかったことを悔しそうにしていた、という話をルド=ルウから聞いていたので、俺としてはいささかならず心配であったのだが、それが杞憂であったことはすぐに知れた。
「ただ、ララ=ルウがずるいずるいとうるさくてな。どうして好きこのんで城下町に向かいたいなどと思うのか、俺にはその考えや気持ちがよくわからないのだ」
「それはきっと、かまど番ではレイナ=ルウやリミ=ルウばかりが同行することになっているからじゃないかな。ララ=ルウは人一倍好奇心が旺盛なようだし」
「ふむ……確かに、かまど番としてアスタの手伝いに選ばれるのは光栄なことなのだろう。だけど、護衛役として同行する俺にずるいと当たるのは、道理が通っていないのではないだろうか?」
「きっと世の中には、道理よりも大事なことがあるんだよ」
納得したのかそうでないのか、シン=ルウは「ふむ……」と考えこんでしまった。
そのかたわらでは、今日もご機嫌のリミ=ルウがトゥール=ディンを相手にはしゃいでいる。トゥール=ディンは意外とヤミル=レイやレム=ドムといった強面の女衆に心を開きやすい傾向にあるのだが、社交性と無邪気さの権化であるリミ=ルウが相手ならば、やっぱり相応にくつろぐことができるのだろう。朝方にはかなり張り詰めた面持ちをしていたが、今はひかえめながらもリミ=ルウに笑顔を返している。
そして最後のメンバー、アイ=ファである。
城下町に入ってからは道も平坦で、このトトス車には俺たちの荷車よりも上等なサスペンションがきいていたが、きっとここまでの道のりがそれなりに響いているのだろう。狩人の衣の下でさりげなく胸の下を押さえつつ、さきほどから仏頂面で無言を通している。
トトス車は、なかなかその動きを止めようとしなかった。
俺たちが毎回招かれているトゥラン伯爵邸よりも、さらに深部に向かっているようだ。正確な位置は聞いていないし聞いても地理は把握できないが、「白鳥宮」などと銘打っているのだから、それはジェノス城の敷地内に存在するのかもしれない。
貴婦人の数は、8名と聞いている。高貴なる女性がたの茶会の準備に森辺の民を招こうなどというのは、大事な歓迎の宴の厨をまかせるのと同じぐらい素っ頓狂な話なのだろうな、と思う。
見るからに能動的で恐れげのないエウリフィアはともかく、それ以外に7名も森辺の民を恐れない貴婦人が存在するという事実は、俺たちにとって寿ぐべき事柄なのであろうか。
そんな思いを胸に、4、50分ばかりもトトス車に揺られていると、何度かの停車ののちに、ようやく後部の扉が引き開けられた。
「お待たせいたしました。足もとに気をつけてお降りください」
最初に城門で挨拶をした白装束の武官である。
気のせいか、その武官も若くて見目は秀麗であるように感じられる。
そうして車を下りると、実に意想外な風景がそこには広がっていた。
だだっ広い、白い石の敷きつめられた庭園のど真ん中である。正面にはやはり石造りの白い宮殿が立ちはだかっており、左右や後方には白い石塀が張り巡らされている。どこに目を向けても色彩は白、灰色の煉瓦ではなく大理石のようなすべすべの石で構築された空間だ。
(ますます石の都の名に相応しい様相になってきたな)
煉瓦ならともかく、これほどの石を切り出すというのは並大抵の労力ではないだろう。しかもこれはジェノス城そのものではなく、貴婦人が茶会をするための小宮にすぎないのだ。ジェノスがどれほど豊かな町であるか、あらためて思い知らされたような心地であった。
(トゥランはあくまで伯爵家、これが候爵家との力の差ってわけか)
建物は、おそらく平屋だがずいぶんと背の高い、たいそう立派なものであった。俺たちの頭上には大きく屋根が張り出しており、それが図太い石柱に支えられている。ギリシアかどこかの古跡を思わせる、美麗なれども年季の入った建造物だ。
「こちらにどうぞ。まずは浴堂にご案内いたします」
武官の案内で、両開きの巨大な扉をくぐる。
トゥラン伯爵邸のように絨毯は敷かれておらず、石敷きの回廊であった。
高い位置には大きく明かり取りの窓が空けられており、強い陽光がたっぷりと取り入れられている。白い石が目にまぶしいほどだ。
さして歩かされることもなく、回廊は壁に突き当たる。
壁にはふたつの扉があり、そして回廊は左右に果てしなく続いていた。
「殿方は右の扉、ご婦人方は左の扉でお願いいたします」
「あ、男女で浴堂が分かれているのですか。トゥラン伯爵邸では同じ浴堂を順番に使っていたのですが」
「はい。この《白鳥宮》では分かれております」
当然のようにアイ=ファは不本意そうな顔をしていたが、どのみち身を清める際は行動を別にするのだから、大差はないだろう。俺とシン=ルウは右の扉に、アイ=ファとリミ=ルウとトゥール=ディンは左の扉に、それぞれ歩を進めていく。その際に、こちらで準備した食材や調理器具はすべて小姓らに託されて、厨に運び込まれることになった。
扉の向こう側で待ち受けていたのは、やはり年端もいかない小姓の少年だ。アイ=ファたちのほうでは、きっと侍女が待ち受けているのだろう。
「お召し物は、こちらでお預かりいたします」
「ああ、どうも」
同性ばかりなので気兼ねはいらない。俺は身につけていたものを脱ぎ捨てて、小姓の差し出した籠の中にぽいぽいと放り込んでいった。
で、俺は生まれたままの姿に成り果てたわけであるが、小姓の少年はお行儀よく手を合わせたまま動こうとしなかった。
で、シン=ルウのほうにしずしずと一礼し始める。
「そちらのお客人も同行されるのであれば、沐浴をお願いいたします」
「かまどの間には、別の人間が同行する。俺は扉の外を見張るので身を清める必要はないだろう」
事前に話を通しておいたので、シン=ルウはそのように答えることになった。
が、小姓の少年は目を伏せたままもう一度一礼する。
「この《白鳥宮》においては、すべてのお客人に沐浴をお願いしております。扉の外というのは、宮殿の外という意味でありましょうか」
「そうではない。かまどの間の外、という意味だ」
「では、沐浴をお願いいたします」
シン=ルウは一瞬だけ迷うような素振りを見せたが、それでも無言で衣服を脱ぎ始めた。沐浴自体はどうでもよくて、ただ刀を手放すことに躊躇いを覚えたのだろう。
しかし、ここまで足を踏み入れたからには、あるていどの覚悟を固める他ない。いかに森辺の狩人といえども、100名や200名の兵士たちに襲いかかられたらあらがうすべはないのだから、護衛役というのも半分は名目上のものであるのだ。
それでも、城下町の人間がこちらの信頼を踏みにじるような行為に及ぶようなら、何としてでも狩人のひとりは石の塀から脱出して、森辺に危急を伝え知らせる役を負うことになる。城下町における護衛役というのは、そういう重大なる仕事でもあるのだ。
そうして裸身となった俺とシン=ルウは、小姓の案内で次なる扉をくぐることになった。
お馴染みの、ヨモギみたいな匂いの充満する蒸し風呂だ。
少年から受け取った手ぬぐいで、蒸された身体を入念にぬぐう。ラントの川の水浴びほど爽快ではないものの、これだけ回数を重ねると、俺もいくばくかは蒸し風呂の心地好さというものを理解できてきたような気がした。
いっぽうシン=ルウは周囲の気配を探りつつ、いかにもおざなりな手つきで身体をぬぐっている。
もうもうとたちこめた蒸気の中で、俺は「へえ」と声をあげることになった。
「シン=ルウも細く見えるけど、やっぱりルド=ルウに負けない筋肉だね。狩人なんだから、当たり前の話なんだけどさ」
「アスタもかまど番の割には頑強そうな身体をしているな。狩人としての修練を始める13歳になりたての男衆のようだ」
「うん、以前にアイ=ファにも同じような感想をいただいたよ。……あ、べつに裸身を見せたわけじゃないけどね!」
「誰もそのような話はしていないではないか」
これが裸のつきあいというものだろうか。最近はあまりシン=ルウとも言葉を交わす機会もなかったので、何だか俺はずいぶん楽しい気持ちになってきてしまった。
そんなこんなで垢擦りを終えた俺たちは、奥にある容器の水で髪から身体まですみずみを流し、無事に身を清める仕事を完了させた。
「では、こちらにどうぞ」
それを見届けた小姓の少年が、右手の側にきびすを返す。
そちらに「待て」とシン=ルウが声をかけた。
「俺たちが入ってきたのは逆側の扉だ。お前は俺たちをどこに導く気だ?」
「お召しかえの間でございます。こちらにどうぞ」
小姓はかまわず扉を空ける。
シン=ルウは俺を追い抜き、率先してその扉をくぐった。
待ち受けていたのは、さきほどの部屋と変わらない石造りの一室だ。
ただし、俺たちの衣服を詰め込んだ籠が見当たらない。その代わりに、部屋の中央に大きな卓が置かれて、その上に見覚えのない衣服が広げられていた。
「お召しかえは、わたくしがお手伝いをさせていただきます」
「……これに着替えねば先には通さぬということか?」
シン=ルウの問いに、少年は深々とお辞儀をした。
シン=ルウは厳しい表情のまま、卓の上に手をのばす。
つかみ取ったのは、衣服とともに並べられていた、ひと振りの長剣であった。
サイズはちょうど森辺でもよく使われている蛮刀と同じぐらいだろう。白い革鞘に収められたそいつを引き抜くと、中からは磨きぬかれた銀色の刀身が現れた。
長さは80センチほど、身幅はやや細めで7、8センチほど、厚みは1センチほどの重そうな直刀である。その刀の腹に視線と指先をひと通り走らせてから、シン=ルウはおもむろに虚空を叩き斬った。
ギバでもいれば、頭蓋を叩き割られていただろう。空気に焦げ目がつきそうな斬撃である。
シン=ルウはひとつうなずいてから、白刃を鞘の中に収納した。
「いい刀だ。さぞかし値が張るのだろうな」
「……お召しかえをお手伝いいたします」
いくぶん血の気は下がったようだが、それでも少年は表情や挙動を乱したりはしなかった。俺たちよりも若年であろうに、なかなか見上げたものである。
で、数分後。俺たちはお召しかえを済ませたわけであるが、シン=ルウの姿はなかなかの見ものであった。彼に準備されていたのは、ジェノスの武官が纏う美麗な白装束であったのである。
兵士が着るような甲冑ではない。胸のところに銀色の帯がななめに掛けられて、襟や袖口にも瀟洒な刺繍のほどこされた、礼服のごとき装束だ。
足もとは白革の長靴で、腰の帯には刀が下げられるようになっている。胴衣の合わせ目には琥珀のような石の留め具が使われており、装束自体も上等な織物であった。
シン=ルウも、どちらかといえば眉目は整っているほうだと思う。ルド=ルウやラウ=レイ、あるいはダルム=ルウのように強烈な個性を放っているわけではないが、東洋的な切れ長の目に、高い鼻梁とすっきりとした細面は、長めにのばした黒褐色の髪と相まって、怜悧で落ち着いた雰囲気をかもしだしている。
それにやっぱり森辺の狩人であるのだから、静かな中にも町の人間とは比べるべくもない迫力と力強さをも持ち合わせているのだ。
そんなシン=ルウがこのような装束を纏ってしまうと、まるで高貴なる血筋の若君のように見えてしまった。
いっぽうの俺は、トゥラン伯爵邸でも着させられた調理着と大差のない格好だ。こちらもやっぱり白ずくめで、前掛けや帽子まで準備されており、手の先と顔しか露出しないデザインではあったものの、なかなかゆったりとした着心地で、暑苦しいことは全然ない。
「……アスタはとても自然だな。俺は何だか馬鹿みたいではないか?」
「そんなことは全然ないさ。下手な武官より貴族っぽく見えるぐらいだよ?」
「下手な冗談だ。……ララ=ルウが一緒でなくてよかった」
森辺の民にとっては、貴族めいているなどという表現も褒め言葉にはならないのだろう。
しかし、ララ=ルウがこの姿を目にしたならば、笑ったり呆れたりするより早く、やっぱりほれぼれするのではないかなあと俺には思えてならなかった。
「では、こちらにどうぞ」
小姓の少年が、また入ってきたのとは異なるほうの扉を開ける。
厨に到達するまでいくつの扉をくぐらねばならないのだろう、などと考えながら歩を進めると、そこにはすでに女衆たちが待ち受けていた。
瞬間、俺は言葉を失ってしまう。
アイ=ファもまた、シン=ルウと同様に武官の白装束を纏わされていたのだ。
「……何だその目は? 言いたいことがあるならば、包み隠さず口にせよ」
心底不機嫌そうに、アイ=ファはそう言った。
それでも俺は、「いやあ……」と口ごもってしまう。
いったい何と凛々しい姿であろうか。
金褐色の髪と、褐色の肌と、白い装束のコントラストが素晴らしい。それはシン=ルウにも負けないぐらい凛然とした若武者のごとき姿であった。
以前も俺を救出する際に姫君のような格好をさせられていたアイ=ファであるが、それと同じぐらい俺は驚かされることになった。「男装の麗人」という言葉が一番相応しかっただろう。アイ=ファのしなやかな肢体と長い手足はそのような男性用の装束を着させられてもまったく魅力を削がれることなく、抜群に格好がよかった。
「アイ=ファ様、とてもよくお似合いです」
そのような声があがったので振り返ると、そこにはうっとりと目を細めたシェイラが立ちつくしていた。どうやら女衆のほうでは彼女が着付けを手伝ったらしい。
「ねー、かっこいいよねー? 森辺のみんなにも見せてあげたいなあ」
そのように発言したリミ=ルウもまた、トゥール=ディンとおそろいのお仕着せ姿である。襟つきの胴衣にすねの真ん中あたりまでくる西洋風のスカート、それに白い前掛けをつけたその姿は、まるでちっちゃなメイドさんみたいだった。
頭にも帽子はかぶっておらず、カチューシャのような髪留めを装着させられている。きっとこのように幼い人間のための調理着というのは、この宮殿にも準備されていなかったのだろう。どちらかといえば、侍女のシェイラに近い姿だ。
「これより先はわたしがご案内させていただきます。まずは貴婦人がたにご挨拶をお願いいたします」
そのように宣言したシェイラが、また新たな扉を引き開ける。
コックとメイドと若武者にフォームチェンジさせられてしまった俺たちは、ぞろぞろとそれに追従することになった。
トゥラン伯爵邸よりも広々とした回廊を、右に左にと連れ回される。
やがて到着したのは、ひときわ大きく立派な扉の前であった。
その扉には、アイ=ファたちと同じ格好をした武官が2名、立ち並んでいる。シェイラがおごそかに俺たちの到着を告げると、武官のひとりが無言のままその扉を開放してくれた。
とたんに、これまで以上の明るさが俺たちを包み込んだ。
そこはまた屋外の庭園であったのだ。
足もとも石畳ではなく青い芝生のような草で覆われており、中心部に向かって細い石の通路がのばされている。
その中心部には、やはり石柱に支えられた巨大な円形の屋根があり、その下で8名の貴婦人たちが早くもお茶を楽しんでいるようだった。
「エウリフィア様、森辺よりのお客人がたをお連れしました」
「あら、ありがとう。あなたは――たしか、ダレイム伯爵家のシェイラであったわね?」
およそひと月ぶりの再会となるエウリフィアである。
本日も高々と髪を結いあげたドレス姿で、陶磁のカップを優雅に傾けている。二十代半ばぐらいの、たおやかなれど明るくよく光る目をした若き貴婦人だ。
が、それよりもまず、俺は他の面々に驚かされることになった。
それも一度や二度ではない。なんとそこに集結した8名の内、エウリフィアを除いても半数は俺の見知った人々であったのだ。
「アスタを茶会に招くという話が広まったら、このような大人数になってしまったのよ。あなたはずいぶん色々なところで縁を結んでいるようね、アスタ」
おかしそうに微笑みながら、エウリフィアが白魚のような指先でその客人たちを指し示す。
「別に堅苦しい会ではないのだから、思うぞんぶん再会の挨拶をどうぞ? 他のお客人たちはその後に紹介させていただくわ」
エウリフィアに礼を述べてから、俺はあらためてその女性たちに向きなおる。
が、誰から声をかけたものか、なかなか考えがまとまらない。そうしている内に、その中でもっともアクティブな気性をした人物がにっこりと笑いかけてきた。
「アスタ、おひさしぶりですね。ご親切にもポルアース様からご連絡をいただけたので、わたしもご同伴させていただくことになったのです」
言葉づかいは城下町モードであるが、それは濃淡まだらの褐色の髪をしたジャガルの大商人の娘、ディアルに他ならなかった。
青いドレスを小柄な身体に纏いつけ、銀の髪飾りで前髪をあげている。普段は意図的に少年めいた格好をしている彼女であるが、城下町での会ではいつもこの姿だ。
「私も、ポルアース、話、聞きました。アスタ、菓子、楽しみにしています」
その向かい側に着席しているのは、ジェノス城の客分たるシムの占星師、アリシュナである。
こちらはいつも通りのマント姿であるが、もとより旅用ではない装飾過多ないでたちなので、ドレス姿の貴婦人たちの中にあってもあまり違和感はない。
しかし、シュミラルとの邂逅によって多少は東の民に対する敵対感情も緩和されたはずのディアルであるが、それにしてもシムとジャガルの民が同じ卓についているというのは、なかなかの驚きだ。
で、そのアリシュナの隣に座った人物は、最初から俺に対して敵意まんまんの視線を差し向けてきていた。
この人物だけは、ちょっと認識するのに時間がかかってしまったが、それはヴァルカスの弟子のひとり、シリィ=ロウに他ならなかった。
調理の際にはきっちりとまとめあげられていた褐色の髪が、今は背中までふわりとたなびいている。他の貴婦人たちに比べればだいぶん質素ないでたちではあったものの、やっぱりたくさんのフリルや飾り物のついた乳白色のドレス姿で、髪には飾り紐や綺麗な石が編みこまれ、貴族の娘だと紹介されても何ら不思議はないような姿であった。
「本当はヴァルカス自身がこの場に馳せ参じたかったようだけれど、今日は朝から仕込みの仕事で、どうしても抜け出すことができなかったようよ。それで代理に彼女の参席を願い出てきたというわけね」
そのように言ってから、エウリフィアはシリィ=ロウに微笑みかける。
「彼女はヴァルカスのお弟子の中でもとりわけ菓子作りを得意にしているという話であったから、本当は厨に入ってほしいぐらいであったのだけれど、それは固辞されてしまったの。まあ、彼女の腕はまた別の機会に楽しませていただくことにするわ」
シリィ=ロウは一礼したが、その間もその視線は俺に固定されたままであった。
とりあえず、シリィ=ロウの得意分野は菓子作り、という条項を心のメモ帳に書き留めておくことにする。
そして、最後の人物である。
意外といえば、この人物が一番の意外であった。
それは精巧なフランス人形のように可愛らしく、フリルとリボンまみれのドレスを纏った、トゥラン伯爵家の当主たるリフレイアであったのだ。
リフレイアは、相変わらずのつんとした表情で俺の視線を受け止めている。
「彼女をこのような場に招くのはまだ早い、という声もなくはなかったのだけれどね。いつまでも屋敷の中に閉じこもっていたら、気分が荒んでしまうでしょう? だから特別にお招きすることにしたの」
エウリフィアの言葉には、とてもお行儀のよい目礼を返す。
それからリフレイアは、取りすました声で「アスタ」と俺の名を呼んだ。
「わたしの生まれ育ったあの屋敷は、このたびめでたくジェノス候爵家に召しあげられることになったわ。予定通り、迎賓用の館として使っていくそうよ」
「ああ、そうなのか……あ、いや、そうなのですね」
「ふん。だから何だというわけではないけど、いちおうわたし自身の口から伝えておきたかったの。あなたとは、この先の人生で何度顔を合わせられるかもわからない間柄なのですからね」
そのように言ってから、リフレイアはけげんそうな目を俺のかたわらに向けた。
「ところで、そちらのあなたたちは何かサンジュラに用事でもあるのかしら? それなら、こちらに呼びつけるけど?」
俺はリフレイアの視線を追い、そして息を呑むことになった。
美麗な武官の姿のまま、アイ=ファとシン=ルウが猛き狩人の火をその目に燃やしていたのだ。
名も知れぬ貴婦人がたはざわざわとざわめき、エウリフィアは興味深そうにアイ=ファたちの姿を見守っている。
リフレイアは軽く眉をひそめてから、「サンジュラ」と声をあげた。
とたんに、向かいの石柱の陰から長身の人影が進み出る。
アイ=ファたちと同じ格好をさせられた、サンジュラだ。
「おひさしぶりです、アスタ。……それに、森辺のみなさまがたも」
「……まさかお前とこのような場で出くわすとはな」
アイ=ファは低い声で言い捨てた。
べつだん敵意を抱いたわけではなく、ただ警戒のレベルを引き上げただけなのだろう。それだけでも野生の獣のごとき迫力がにじみ出てしまうのが森辺の民であるのだ。
しかし、シン=ルウのほうはアイ=ファよりもなお強くその双眸を光らせていた。
リフレイアたちの罪が問われて以降、アイ=ファは何回かサンジュラとも顔を合わせている。が、城下町での護衛役はこれが初めてとなるシン=ルウにとっては、初の再会となるのだ。
「私、リフレイアの護衛役として、ここにいます。森辺の客人に無礼を働く理由、ありませんので、どうぞご安心ください」
「……お前はすでにジェノスの法で裁かれた身だと聞いている。罰を受けた人間をなおも罪人あつかいする習わしは、森辺にはない」
シン=ルウは、アイ=ファ以上に低い声でそのように言った。
「ただし、お前がアスタをあざむいた罪を、俺は一生忘れないだろう。それを守りきれなかったこの身の恥辱とともに」
サンジュラはうやうやしく一礼した。
挑発している意図はないのだろうが、シム人めいた無表情はこういう際にきわめて悪い効果を生むのだろうな、と俺はひやひやしてしまう。
「再会の挨拶はそれぐらいでよろしいかしら? それでは他の貴婦人がたも紹介させていただくわね」
何事もなかったかのように、笑いを含んだ声でエウリフィアはそう言った。
「まずこちらは、わたしの第一息女であるオディフィアよ」
リフレイアよりもなお小さく、そしてサイズ違いのフランス人形みたいな様相の女の子が、じろじろと無遠慮な視線を俺たちのほうに向けてきている。
エウリフィアの子ということは、メルフリードの子ということだ。確かに父親譲りの淡い褐色の髪と灰色の瞳をしていたが、やんちゃそうな表情は全然似ていない。年齢はせいぜい5歳ぐらいだろう。
「こちらはタルフォーン子爵家のベスタ姫、こちらはマーデル子爵家のセランジュ姫。前回の歓迎の宴に参席できなかったものだから、このたびは一番に声をかけてさしあげたの」
別に姉妹ではないのだろうが、よく似た雰囲気と顔立ちをした貴婦人がただ。年齢は俺と同じぐらいで、目下の関心はアイ=ファとシン=ルウのほうに向けられているご様子である。
「厨では、すでにダレイム伯爵家の料理長ヤンが準備を進めているわ。今日は森辺の料理人3名とそのヤンで味比べをする予定なので、そのつもりでね」
「え、このたびのお話は味比べであったのですか?」
その概要は今ひとつわかっていないのだが、たしか料理に点数をつけて勝敗を決める貴族の遊戯であったはずだ。
味を比べるのも腕を競うのもけっこうだが、点数や勝敗をつけたりするのはあまり俺の主義に合わない。
「何も堅苦しく考えることはないわ。わたしたちは、あなたがたほど確かな舌を持っているわけではないのだから。……ただし、勝ち星の数によって仕事の褒賞は変わってしまうので、それだけはわきまえておいていただこうかしら」
「褒賞ですか。褒賞はひとりにつき白銅貨20枚と族長から聞いていたのですが……」
「それは一番星の少なかった料理人の褒賞ね。三番手なら白銅貨30枚、二番手なら40枚、一番手には50枚という褒賞を準備しているわ」
たった一度のお茶会で、白銅貨140枚もが準備されているということか。
それはファとルウの屋台の稼ぎを合計したものよりも上をいく額であった。
「もちろん普段はそこまでの褒賞を準備したりはしないけれど、多忙なあなたがたを呼びつけたのだから、こちらも感謝の気持ちを示させていただきたかったのよ。……それでは、中天の鐘が鳴るのを楽しみにしているわ」
味比べなどは勘弁してください、などという言葉を吐くこともできず、俺たちは厨に案内されることになった。
その間、アイ=ファとシン=ルウがぼそぼそ言葉を交わしあっているのが聞こえてきた。
「ジェノス候爵の言葉を信じるならば、もはやあのリフレイアという娘に森辺の民を害する力は残されていない。ならば、あのサンジュラという男を警戒する必要もないのだろうが……しかし、手傷を負った身であの男と対峙するのは、やはり嫌な気分だ」
「アイ=ファには、俺よりも優れた目が備わっているのだろう? あの男の力量は、森辺の狩人でたとえるとどれほどのものなのだろうか?」
「さてな……ただまあ、ルド=ルウに劣るものではないと思う」
「ルド=ルウか。ならば俺はルド=ルウを超える力量を身につけねばならないということだ」
さすがに俺は心配になって、両者の中に分けいることにした。
が、俺が言葉を発するより早く、シン=ルウは「大事ない」と言い捨てた。
「今後あの男と刀を交える機会がないならば、いっそう俺は腕を磨く必要がある、というだけのことだ。そうでなくては、一生自分の弱さに苦しめられることになるからな」
「そっか」
俺を目の前でさらわれてしまい、シン=ルウは誰よりも自分を責める立場になってしまったのだ。
そうして俺がようやく無事な姿で戻ってきたとき、この沈着な少年がどれほど心を乱してそれを喜んでくれたことか……思い出すと、今でも胸が痛くなってしまう。
「……余計なことを思い出すなよ、アスタ」
と、シン=ルウがいくぶん頬を赤くして俺のことをにらみつけてくる。
「わ、すごいな。アイ=ファなみの察しのよさだ」
「何だそれは。お前は考えや気持ちが顔にあらわれすぎるのだ、アスタ」
とても申し訳ない気持ちになりながら、俺はシェイラの案内で厨の扉をくぐった。
思ったよりも広くはない、それでも16畳ぐらいはありそうな空間に、早くも甘い香りがたちこめている。
その甘い香りの向こう側から、「ああ、アスタ殿」とヤンが頭を下げてきた。
「本日はよろしくお願いいたします。作業台はそちらの半面をすべてお使いください」
「ありがとうございます。……あの、俺は味比べの話を初めてこの場で耳にしたのですが……」
「わたしも同様です。ただ、エウリフィア様のご気性を考えれば、事前に予想をつけることはできました」
そう言って、ヤンは肉の薄い顔に穏やかな微笑みをたたえた。
「アスタ殿やアスタ殿に手ほどきを受けた人間の力量はわたしもわきまえておりますので、たとえ四番手の身に甘んじても恥になることはないと思っています。……しかし、アスタ殿にも劣らない腕を持つ者がやってくると聞いていたのですが、ずいぶん年若い方たちなのですな」
「森辺の民、ルウ家の末妹、リミ=ルウです! 今日はよろしくお願いします!」
「あ、わたしはディン家の家人、トゥール=ディンです……今日はよろしくお願いいたします」
メイドみたいな格好をした少女2名が、片方は元気いっぱいに、片方はおずおずと挨拶の声をあげる。
そちらに向かって、ヤンは「よろしくお願いいたします」と慇懃に頭を下げた。
「ご覧の通り、俺以上に若年のふたりですが、菓子作りに関しては俺よりも上手かもしれません。俺こそ恥ずかしい結果にならないように力を尽くしたいと思います」
「アスタ殿は、菓子作りを不得手とされているそうですね。いっぽうのわたしは、僭越ながら菓子作りを一番の得手としています。これでようやく味比べをするのにも対等の条件になるのではないでしょうか」
そのように言って、ヤンはいっそう優しげに微笑んだ。
気負いも驕りもない、それは驚くほど澄みわたった笑顔であった。